ベトナムの南北分断と南ベトナム解放戦線結成、アメリカの介入開始


残念ながら、ベトナム統一選挙は行われなかった
 ディエンビエンフーで実際に戦って、「勝負あり、ベトナム民主共和国の勝ち」となり、最大の戦争当事国であるベトナム民主共和国とフランスがジュネーブ協定を認めて、フランス軍撤退、2年後のベトナム統一選挙を約束したのだから、これでベトナムの独立、統一が決まるはずだった。しかし、フランスの傀儡「ベトナム国」とアメリカがジュネーブ協定を認めなかったので、残念ながら2年後の1956年のベトナム統一選挙は行われなかった。
 このアメリカが選挙を拒否した理由、背景として明らかになっていることは、当時のアメリカ大統領アイゼンハワーが回顧録『Mandate for Change』(1963年、p.372)の中で、「もし自由選挙が行われていれば、国民の80%がホー・チ・ミンに投票しただろう」と述べていることが根本であった。ホーチミンは軍を指揮して強敵フランスを見事に全面降伏に追い込んだ一種の英雄であり、独立に向けての熱意は、共産党の好き嫌いの違いががあるとしても、その詳しい理念が理解できない人も支持しうる状況だったであろう。南側の、フランスと組んで権力を振るっていた官僚、儲けていた資本家などは共産党政権になると財産を没収されたり報復を受けると考え、こんどは頼る先をアメリカに代えたのであった。実際にも、1956年当時のベトナムの総人口は、国連『人口統計年鑑1958年版』によれば約2,826万人(p. Table 3)であり、南北人口比は載っておらず、CIA や USOM の資料にあるとのことだが、現在直接それぞれの図書館に行かないとみられないという困難がある。それでそれらを引用した2次3次資料からの推測になるが、この時期の南北人口比は北約52%、南約48% とされている。この人口比だけからも単純に言えば北のホーチミン、共産党勢力が選挙で勝つことは明らかだった、と言われる。
 
南にゴ・ディン・ジエム(Ngô Đình Diem)政権発足。南北分断化
 1955年に、南では、それまでバオダイ政権(ベトナム国)の首相を勤めていた、ゴ・ディン・ジエムが、国民投票でバオダイを破って「ベトナム共和国」の大統領となった。17度線は臨時の軍事境界線としてジュネーブ協定で定められていたが、事実上の国境となっていった。  
 結果として、17度線の近くを流れているベンハイ川が、南北分断の川となった。ここにフランスが建築していたヒエンルオン橋というのが架かっていて、南北分断のシンボルとなって、何回もこの後の戦争で破壊されるが、現在は観光用に作り直されている。私が行った2025年は、残念ながら修築工事がなされていてその入口しか見られなかった。興味のある方は私の写真を参考に、GoogleMapsに載っている他の方の撮った写真を探してみてください。

 

すぐ脇の新しい自動車用新橋から、ベンハイ川を見る。修復中のヒエンルオン橋の土台のコンクリートも見える。右が「南」、左が「北」。


 

(左)北側からのヒエンルオン橋への入口  (右)北側から見たヒエンルオン橋の土台群と南側の記念碑、自動車用新橋。
 


 ゴ・ディン・ジエムは、「ベトナムの貴族の家系に生まれた。17世紀の彼の祖先は、ベトナム人として最初にローマカトリックに改宗した人々の一人であった。彼は若い頃、ベトナムの皇室と親交があり、1933年には皇帝バオダイの内務大臣を務めた。しかし、フランスが彼の立法改革を容認しないことに不満を抱き、同年中に辞任した。称号と勲章を返上したディエムは、その後12年間をフエで静かに過ごした。1945年、共産主義指導者ホー・チ・ミンの軍隊に捕らえられたディエムは、新たに宣言されたベトナム民主共和国(北ベトナム)におけるホーの独立政府への参加を招請された。ホーはディエムの参加がカトリック教徒の支持を得ることを期待していた。しかしディエムはこの提案を拒否し、自ら※亡命(アメリカ、ベルギー 私注)の道を選んだ。その後10年の大半を国外で過ごした。1954年、バオダイ皇帝の要請により帰国したディエムは、・・・首相に就任した。」
(「Britannica」の「Ngo Dinh Diem」より)
 1955年10月、南ベトナムでは、当時の国家元首バオダイをそのまま続けさせるか、首相ゴ・ディン・ジエムを新たな国家元首とするかどうかを問う国民投票が実施された。表向きは民主的な選挙の形式を取っていたが、当時の米国外交文書、南ベトナム政府に関する研究書、そして当時の国際報道など複数の史料が指摘するように、その実態は政権が結果をあらかじめ決めていた政治的儀式に近かった。
 まず、投票用紙そのものに重大な問題があった。ジエム支持票とバオダイ支持票は異なる色の紙で印刷されていたと複数の研究や証言が一致して伝えており、投票所では有権者がどちらの票を手にしているかが一目で分かった。投票箱に入れる前に係員が色を確認できるため、秘密投票は事実上成立していなかった。一部の証言では、バオダイ票を手にした有権者が係員に呼び止められ、「本当にそれでいいのか」と問いただされた例も記録されている。
 投票前には、政府と与党組織が主導して、バオダイを侮辱する大規模なキャンペーンが展開された。街頭にバオダイの人形を吊るし、「腐敗した王」「フランスの傀儡」といった文言を掲げる行為は、当時の新聞報道や後年の研究書でも確認できる。宣伝車が町を回り、バオダイを嘲笑する録音を流し、学校や役所ではバオダイを否定する講話が行われた。こうした宣伝は、「バオダイに投票するのは危険で、反国家的だ」という空気を作り出す効果を持っていた。
 投票当日には、行政官、警察、与党組織(カンラオ党)が投票所に立ち、投票行動を事実上監視したと、当時の外交報告や現地の証言が伝えている。色分けされた投票用紙の存在と相まって、バオダイ票を手にすること自体が危険な行為となった。ある村では、村長が投票所の入口に立ち、ジエム票を持っていない住民に「家族のことを考えろ」と暗に脅しをかけたという報告もある。
 開票結果は、民主国家ではほぼ見られないほど統計的に不自然だった。ジエム支持は98.2%と発表され、バオダイ支持はわずか1.8%にとどまった。さらに、一部の地域では有権者数を超える投票数が記録されている。たとえば、ある地区では有権者数の133%の票がジエムに投じられ、別の地区では投票率が100%を超えていた。こうした数字は、架空票の追加や集計段階での操作が行われた可能性を強く示している。
 アメリカ大使館の報告や米国務省の外交文書でも、「この投票は自由でも秘密でもなかった」と明記されている。アメリカ側は、政権による動員、投票所での監視、宣伝の偏り、投票手続きの不備を問題視していたが、冷戦下の政治状況から最終的にはジエム政権を支持する立場を取った。つまり、国際的にもこの選挙が公正でなかったことは認識されていた。
 こうした要素が重なり、1955年の南ベトナム国民投票は、民主的な選挙の形式を取りながら、実際には政権が結果を決めていた政治的イベントであったと総合的に判断できる。投票用紙の色分け、侮辱キャンペーン、監視と圧力、異常な投票率、そして外交文書の評価は、その不正の構造を具体的に示すものである。

(本説明は、当時の米国外交文書、複数の研究書、当時の報道などを参照し、それらを総合して教育用に整理したものです。)
 

 

(左)ゴ・ディン・ジエム   (右)その弟ニュー (ともにパブリックドメイン)


 「ジエムは共産主義者を憎む民族主義者であった。 同時にカトリック教徒でもあり、この宗教はフランスと強く結びついていた。 米国との強固な関係を有していた。 彼はバオダイに従属する立場に興味がなかった。 」
(Vietnam War – Fact Sheet 5(ニュージーランド政府)サイト https://nzhistory.govt.nz/sites/default/files/documents/all-fact-sheets.pdf より)
 アメリカがこのジエムの「国民投票」を仕組ませたという証拠は無く、ジエム自らの意志で実行したとみるべきであろう。しかし、アメリカは同年、ジエムを支持する方針となる。当時のダレス国務長官のマニラから国務省宛の電報で、「国務長官は、ジエムの国内での立場がはるかに安定し、有利になっていることに満足を表明した。国務長官は、米国政府、つまり大統領と自身は、ジエムとベトナムに多大な関心を寄せていると伝えた。米国は、その努力と援助、そして道義的支援を通じて、ジエムが国内で現在の安全な地位を築くことに貢献してきた。したがって、彼が政府を強化するために必要な措置を講じることは極めて重要である。」(FRUS米国外交文書 https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v01/d50 より)
 ジエムは「彼の信頼する弟、ゴ・ディン・ニューを政府与党カンラオ党の指導者兼秘密警察の長とし、ニューの派手で精力的な妻、マダム・ゴ・ディン・ニューは南ベトナムの実質的なファーストレディとなった(※ジエムが独身だったため 私注)。ジエムは1959年末以降、北ベトナムが支援する武装共産主義勢力の攻撃に直面した。冷戦という文脈において、これは多くのアメリカ人がディエムの独裁政権に絶望していたにもかかわらず、米国からの追加支援をもたらした。」
 (「Vietnamese Generals Overthrow Diem Regime」 2023年 R. C. Lutz  https://www.ebsco.com/research-starters/history/vietnamese-generals-overthrow-diem-regime より )


ホーチミン・ルートの建設と、武力による南の解放・南北統一のための南ベトナム解放民族戦線結成
 
 平和的解決を無理と見たベトナム民主共和国側は、武力による南の解放を目指して、ラオス、カンボジアとの国境沿いに、道路を開き輸送路を確保し(「ホーチミン・ルート」と呼ばれた)、南へ兵力、武器を送った。17度線の南北に非武装地帯があり、その外側に地雷など南側の武力があったので迂回する必要があったのだった。もともと、17度線は国境でなく、臨時軍事境界線として設けられたものであり、しかも、南の政権やアメリカは、この協定を認めていないのであって、これを「北の南への侵略」などというのは全く当たらない。このホーチミン・ルートは、1959年に建設が始まり、同年中に運用が開始された。当初は山岳の古道をつなぎ合わせた簡易な道だったが、1960年代後半にはトラック輸送が可能な大規模補給路へ発展した。ベトナム民主共和国から発し、本流はラオス側の山岳地帯を通っていたが、南ベトナムへ兵力と物資を送り込むための巨大な補給網で、「本線」も一本ではなく、後にアメリカの破壊爆撃を受けたこともあり、何本もの道があり総称されて「ホーチミン・ルート」という。下のパブリックドメイン(著作権フリー)の図が、一本の本線ルートを示していないのはそのためである。数百本の支線から構成されていた。全体をホーチミン・ルートという。ラオスは名目上は中立国だったが、実際には東部を北ベトナム軍とパテート・ラオが支配しており、ホーチミン・ルートは自由に使われていた。ラオス政府は協力したのではなく、止める力がなかった。カンボジアではシアヌーク政権がベトナム革命勢力に協力的だった。

 私は、その支線の要衝だったという「ダクロン橋」(Dakrong Bridge)に行って見た。ここは、ベトナム中部クアンチ省にあるダクロン川に架かる橋で、その本流から南ベトナム側のケサンやクアンチに行く複数の支流が合流する結節点であった。

ホーチミンルート (パブリックドメイン)

中央の朱色の太線が「南ベトナム進入ルート」(1本の道でなく、多くの道が使われているため)。赤線がカンボジアを通るシアヌークルート。ピンク線は支線。


 

この橋はラオス国境方面と南ベトナム戦線を結ぶ戦略的要衝で、米軍の空爆によって何度も破壊されたが、そのたびに再建された。現在はDMZ観光ルートの主要スポットとなっている。


 

解放戦線の旗とその前で戦士として戦うことを誓う人々(パブリックドメイン)


 「北部の政権も抑圧的だった。共産主義政府に反対する数千人が処刑された。ベトナムで第二次戦争が勃発した。これは内戦として始まった。南ベトナムに残留していたベトナム独立同盟(ベトミン)は1956年末に小規模なゲリラ活動を始めた。1960年以降、ベトミンが南部で組織的な農村蜂起を指揮するようになると戦闘規模は拡大した。ディエム政権の支持基盤は主に都市部にあったが、人口の大半は貧農だった。こうした人々の多くはディエム政権下で苦しみ、政権打倒のために戦う意思を持っていた。この反乱運動は1960年末に結成された南ベトナム解放民族戦線(NLF)が主導し、ディエム政権に代わる政府を提供した。NLFは民族主義者と共産主義者という二つの異なるグループで構成されていたが、後者が運動を支配していた。NLFは人民革命による政権掌握とベトナム統一を志向した。同時にアメリカの影響力排除も求めた。NLFの軍事組織は・・・北ベトナムから武器・物資・兵士を供給された。この支援は『ホーチミンルート』と呼ばれる密林の経路網を通じて行われた。この経路は南ベトナムに入る前に、隣接するラオスとカンボジアを通過していた。北ベトナムは当初、支援の大半を中国から受けていた。後にソ連が戦車、大砲、ミグ戦闘機、地対空ミサイルを供給した。1960年代初頭、アメリカは南ベトナムへの支援を拡大した。ニュージーランドはアメリカの圧力に抵抗し、支援を拒否した。」
(Vietnam War – Fact Sheet 5(ニュージーランド政府)サイト https://nzhistory.govt.nz/sites/default/files/documents/all-fact-sheets.pdf より)


ケネディの「特殊戦争」と失敗

 1961年、アメリカ大統領に就任したケネディは、南ベトナムに大量の軍事顧問と兵器を送り、南ベトナム政府軍を訓練するとともに、ゲリラ対策として、反解放戦線キャンペーンを農村部で行い、農民を解放戦線に近づけないよう、鉄条網で囲った「戦略村」に入れるという戦術をとった。しかし、故郷を終われた農民たちの反感を買い、逆に夜中に接触して来た解放戦線に参加する者を増やした。

   

(左)1961年にアメリカ内の特殊部隊基地を訪問したケネディ     (右)戦略村  (いずれもパブリックドメイン)



  

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