相次ぐ南ベトナムのクーデター
ジエムの仏教弾圧と、アメリカのジエム見限り
ゴ・ディン・ジエムは、熱烈なカトリック教徒で、長い間の亡命生活をしてきたため、その勢力にしか支持基盤を見出せず、極端なカトリック優遇政策をとった。役人や軍の幹部もカトリック教徒から選び、経済的にもカトリック勢力を優遇した。これに対し、当時人口の80%前後を占めると言われた仏教徒には抑圧的対応をした。その一つが、1963年、仏旗を寺院が掲げることを禁止したことであった。同年5月8日、これに対してフエで仏教徒たちが抗議のデモをしたが、官憲に襲撃され、発砲で9名が殺害された。サイゴンのフオックホア寺の僧、テイック・クアン・ドック師は、政権の仏教弾圧政策に抗議するため、サイゴンの中心部の路上で焼身自殺をするというショッキングな方法をとるにいたった。これは彼自身の単独行動ではなく、他の僧たちも合意の上、その僧たちが見守り、周囲を制御する中、彼は坐禅の時の完全な座り方である結跏趺坐(けっかふざ。蓮華座ともいう)の姿勢をとり、ガソリンを掛けてもらい、焼身となってもその姿勢を崩さなかった。これは世界に衝撃を与え、ジエム政権の仏教弾圧が明るみに出たのだが、ジエムの弟の妻で「マダム・ヌー(ニュー)」と呼ばれたゴ・ディエン・ヌー(ニュー)は、この好意に対し「人間バーベキュー」と嘲笑し、「次にやる人がいたら私がガソリンとマッチをあげる」と発言した。さらにジエムの弟は、同年8月21日に全国の寺院を軍隊や警察で襲撃し、僧侶や尼僧などを殴打したりして1400名を逮捕し、数百名を死傷させ、弾圧によって仏教勢力の抗議を抑え込もうとした。
仏旗(現在のもの)と、ドック師の記念碑がある場所。このすぐ脇の交差点で焼身自殺した。

ドック師の記念碑と、近くにある、その行為についての説明板

ドック師を嘲笑した、ジエムの義妹、マダム・ニュー。夫が殺されたクーデターのとき、ベトナムにいなかったため命は拾ったが、この後二度とベトナムの土を踏めなかった。
この露骨な弾圧政策を目の当たりにして、アメリカのジエム擁護政策の大転換が起きる。下の資料にあるように、8月24日、場合によってはジエムを辞めさせ、代わりのものを探すよう、大使に指示したのだった。「アメリカ国務省よりベトナム大使館宛電報 1963年8月24日(前略)
⑴まず、ベトナム政府の適切なレベルに対し、以下の点を強く主張しなければならない。
(a)米国政府は、戒厳令を盾にニューとその協力者らが仏教徒に対して行った行動を容認できない。
(b)事態を是正する即時の劇的措置が取られねばならない。これには法令10号の廃止、逮捕された僧侶・尼僧ら
の解放などが含まれる。
⑵同時に主要な軍指導者らに対し、上記措置が直ちに取られない限り、米国がベトナム政府への軍事的・経済的
支援を継続することは不可能であると伝える必要がある。我々は、この措置にはニュー一家の排除が不可欠であ
ると認識している。我々はジエムにニュー一族排除の合理的な機会を与えたいが、彼が頑なに拒否する場合、我
々はもはやジエムを支援できないという明白な帰結を受け入れる用意がある。また、中央政府機構が機能不全
に陥った暫定期間においては、適切な軍事指揮官に対し直接支援を行うことを伝えてもよい。
⑶寺院襲撃による軍への汚名を拭い、責任をニューに明確に帰属させる必要性を認識している。この目的達成の
ため、サイゴンで必要と判断する声明を発表することを許可する。
(中略)上記と並行して、大使及び現地チームは、あらゆる代替指導者候補を緊急に検討し、必要が生じた場合にジエム
の後任をどう実現するか、詳細な計画を立てるべきである。(以下略)」
(National Archives and Records Administration(NARA), “Cable 243,” National Archives Catalog, ID 193710, https://catalog.archives.gov/id/193710(参照 2026-01-03).より)
ジェム殺害・軍事クーデター
1963年11月1日朝、軍部の将校たちによるクーデターが発生した。彼らは自分たちの部隊を率いて、各省、軍司令部を占拠し、役人や司令官らを拘束し、大統領官邸を包囲して、ジエムと弟ニューに「1時間以内に辞任・降伏すれば二人の国外退去を保障する。」と電話で通告したが、二人は応じず脱出し、翌日捕らえられ、殺された。2日には、軍人ズオン・バン・ミンを議長とする臨時軍事評議会が成立し、南ベトナムの権力を握った。

大統領官邸(現在はここに統一会堂が建っている パブリックドメイン)
(左)ズオン・バン・ミン (右✟はクリックすると殺されたゴー・ディエン・ジエムにリンク(閲覧注意)
生々しいクーデターの写真を使いたいところだが、残念ながら関連するパブリックドメインのものは上のものくらいである。
そこで、私は一応アメリカ国務省が公開している外交文書集FRUS(Foreign Relations of the United States)1963年11月1日〜8日の電報を実際に読み、その一次資料に基づいて、クーデター当時に何が起きていたのかを、時系列でわかりやすくリアルな情景が浮かぶようまとめてみた。(細かいことなので、飛ばして読んでいただいてけっこうです。)
1. クーデター前夜:アメリカの判断と圧力
FRUS を読むと、アメリカ政府はすでに「ジエム政権の弾圧的な統治では、人心は離れ、南ベトナムは解放戦線との戦争に勝てない」と判断していた。2. 1963年11月1日:クーデター開始
そのため、アメリカは口頭での警告だけでなく、南ベトナムの特殊部隊への支援停止、物資援助プログラムの凍結といった 実際の圧力を加えていた。これは後に、南ベトナム軍の将軍たちがクーデターを決断する直接の引き金になった。
11月1日朝、南ベトナム軍の将校団は行動を開始した。
主要省庁、各軍司令部、通信施設、ラジオ放送局が次々と占拠され、大統領官邸は包囲された。将軍団はジエムと弟ヌー(ニュー)に対し、「1時間以内に辞任すれば国外退去を保障する」 と通告したが、返答はなかった。その日の夕方、ジエムはアメリカ大使館に電話をかけ、「アメリカはどういう態度をとるのか」と尋たが、大使館は「まだこちらは朝の4時半だ。答えられない」と返答した。やがて、官邸は戦車・歩兵・空爆を含む攻撃を受け、サイゴン市内でも一部戦闘状態になった。
3. 11月1日夜:ジエム兄弟の脱出
FRUS によれば、ジエムとヌーは夜のうちに官邸を離れ、チョロン地区(中国人街)へ移動。大統領官邸に秘密のトンネルがあったので使ったとの情報もあった。そこのクラブハウスで一晩過ごした。また中華民国大使館に亡命申請したが許可が下りなかった。
4..11月2日朝:ジエム兄弟の拘束と殺害
朝8時ころ、中国系カトリック教会に身を寄せていた兄弟は、そこで南ベトナム軍部隊に拘束された。拘束後、二人は 装甲車(M113)に乗せられ移送された。南ベトナム軍は当初「自殺」と発表したが、FRUS に引用された現地情報・写真・報告では、遺体に銃創、刺傷、手を後ろで縛られていた、殴打の痕跡があったなどが確認されており、自殺説が成立しないことが明らかになった。クーデター当局は殺害命令は出していない、と弁明した。教会関係者の証言では、二人は跪いた状態で連れ出され、射殺された後に装甲車へ収容されたとも言われている。
5. 11月2日午後:軍事革命評議会の成立
南ベトナム軍は 軍事革命評議会(MRC) の成立を発表した。
議長(国家元首):ズオン・バン・ミン(ビッグ・ミン)
首相:グエン・ゴック・トー
国防相:チャン・ヴァン・ドン
評議会は「憲法改正までの間」立法・行政権を保持する」と宣言し、南ベトナムは軍事政権へ移行した。なお、新政権の担い手は大半が仏教徒であった。
6. 11月3〜8日:アメリカの反応と新政権への要求
FRUS の11月3〜8日の電報では、アメリカが新政権に対して最優先で求めていたのは「解放戦線との戦争遂行能力の強化」だった。ラスク国務長官は、「クーデターは抑制的かつ効率的に行われた。新政権の方が戦争遂行の見込みが高い。援助は近く再開する。」と述べた。なお、ケネディ大統領は、ジエム兄弟が死んだと聞いて「飛び上がって立ち上がり、これまで見たこともない衝撃と落胆の表情を浮かべて部屋から駆け出した。彼は常に、ジエムが亡命以上の処遇を受けるべきではないと主張し、流血なく政権交代が可能だと信じ込まされていたか、自らそう思い込んでいた。また、敬虔なカトリックの二人が自殺したということを当初聞いて、疑問を呈したという。ラスク国務長官は、上院外交委員会で「将軍たちが暗殺を命じたわけではなく、現場の軽率な連中がやったことだ」と述べた。また、大統領は「我々は、あらゆる方法でこの新政権が効果的に機能するよう支援する責任がある。」 と述べた。
その後の軍事政権と相次ぐクーデター、未遂事件の連続
「・・・ズオン・バン・ミン政権は、中立志向をもち、革命勢力の対決よりは対話を求める傾向があった。※ケネディ暗殺(1963年11月22日 私注)の結果生まれたジョンソン政権では、せまる大統領選挙のためにも南ベトナムを失うわけにはいかないという配慮が優先し、国防総省・軍部の発言力が増していた。米軍部は、サイゴン政権の中立志向を懸念して、グエン・カイン将軍のクーデターを支援したが、その後のサイゴン政権はつぎつぎにクーデターを繰り返す極度に不安定な政権となり、その統治は大きく動揺することになった。」
(『歴史としてのベトナム戦争』p25 古田元夫 大月書店)
年表風にまとめると次の通り。1964年1月30日 カーン将軍によるクーデター(成功。ミンは拘束、自宅軟禁)
1964年9月 反カーン派将軍団によるクーデター(未遂)
1965年2月 若手将軍団によるクーデター(成功。カーンは国外追放)
1965年6月 グエン・バン・ティエウ(陸軍将軍)とグエン・カオ・キ(空軍司令官)によるクーデター(成功。ティエウが国家元首、キが首相になる)
この二人の体制が1975年まで続く。

(左)グエン・バン・ティエウ (右)グエン・カオ・キ (ともにパブリックドメイン)