フランス支配を最終的に破ったディエンビエンフーの戦いとジュネーブ協定
ディエンビエンフーの戦い
隣国ラオスでも、戻って来たフランスが、1949年にシーサワーンウォンを王とするラオス王国の「独立」を認めたが、これもバオダイの「ベトナム国」と同様、フランス連合内の国として、外交権、軍事権をフランスに握られている傀儡国であった。これに反対するラオス人たちは、分裂していたが、その中で「パテト・ラオ(ラオス国)」という組織が、ベトミンの支援を受け北部に拠点を作っていた。フランスに共に抵抗していたベトナム民主共和国勢力は、ベトナムからこのラオスの組織へ支援を続けていた。フランスは、ベトナム北部で平野部を支配下に置いたものの、ベトナム人の山地からのゲリラ活動に苦しんでいたため、この支援ルートを断ち切るとともに、民主共和国軍の主力を誘い出して一気に殲滅させるため、決戦の地としてラオス国境に近く、険しい山に囲まれた盆地のディエンビエンフーに大要塞を作ることにした。ここには旧日本軍の作った滑走路もあって、フランスはそれを整備して空軍輸送力を最大限に活用して、戦車も解体して人的物的物資を空から運び、要塞を完成させた。フランスは、民主共和国軍には空軍が無く、また、周りの高い山々を越えて届く大砲も無いと、高をくくっていた。
この地図を拡大し、地形図ヴァージョンにすると、ディエンビエンフーが盆地だということがよく分かる
ベトナム民主共和国側も、この地でフランスを破ろうと作戦を練った。ホーチミンの片腕となり、またその優れた戦術から「赤いナポレオン」と呼ばれた、ボーグエンザップ将軍は、長期戦に耐えられる十分な弾薬、食糧などを、人海戦術で周りの山に道を開き、ディエンビエンフー周囲の山上に運び、さらに攻撃拠点も草木などで覆って分からないようにするという、フランスが想像もしていなかった作戦を実施した。重火器も解体して運搬した。武器はソ連や中国から援助された。ディエンビエンフーの歴史戦勝博物館には、分解しても重い火器などを人力や自転車で運び上げた様子が、写真や360度パノラマで描かれた大きな絵の一部として展示されている。

ディエンビエンフー空港から見た周りの山並みと盆地

人形で再現した、ホーチミン、ボーグエンザップらの作戦会議(現地の歴史戦勝博物館の展示)
現地の旅行会社に、戦闘中にボーグエンザップの指揮した場所に行ってほしい、と依頼していたのだが、ガイドとドライバーにそれが伝わっていなかったため、ハノイへの帰りの飛行機の時間の関係で行けない、と言われたのが残念だった。そこについてのサイトは↓にあるGoogle Mapsで入ると様々な遺跡が見られるので参照のこと。


人形で再現された、山道を作り、火器を人力で引き上げた様子

道路開削に使われたスコップや火器を引き上げたローブまで展示されていた(同博物館)

運搬に使われた自転車

少数民族の協力も得られた
1953年3月13日から、周りの山地全体を取り囲み、地上の補給路を断った、民主共和国軍の全面攻撃が始まった。フランスはアメリカの援助により、戦闘機で攻撃をかけたが撃墜されるなど、全体で62機の軍用機が撃ち落とされた。さらに滑走路を破壊されたため、空からの支援物資が正確に陣地に届かなくなった。このときの艦上戦闘機Hellcatが、新しく建築されたハノイの軍事歴史博物館の館外に展示されている。

軍用機撃墜など激しい戦闘風景を描いた、博物館の360度バノラマ図の一部

撃墜された艦上戦闘機Hellcatの残骸
ベトナム共和国軍は、砲撃による攻撃とともに、塹壕を掘ってフランス軍陣地に近づき、爆破したり、白兵戦で一つ一つ9つあったフランス軍陣地を破壊していった。現在、そのうち5月7日未明に陥落したA1陣地の跡が整備されて史跡として公開されている。

三重の鉄条網を巡らし、塹壕も掘っていたフランス軍陣地のジオラマ

塹壕を掘って進む

フランス軍A1陣地の跡。よく整備された地下壕があった。

攻撃するベトナム側の掘った塹壕と爆破した場所
A1要塞が未明に陥落した後、包囲された司令部のあったH基地もその日の午後に司令官が出てきて降伏した。その司令部跡も残っている。結局16,000人ものフランス兵が捕虜となり、フランスはベトナムの支配を放棄することになった。ディエンビエンフーの戦いは、抑圧されていたアジアの民族が、自力で戦って独立を勝ち取れるということを示した歴史的な戦いとなるはずであった。

フランスは各陣地に妻や恋人の女性名を付けて士気を鼓舞したという。Claudineが司令部のH基地であった。

司令部は、塹壕の中に、土嚢で壁や天井を覆い、さらに天井に鉄板を敷き、加えて外には蒲鉾型に鉄板を被せて防御を固めていた。上のプラスチックの覆いは展示を守るため後にベトナムによって架けられたもの。

降伏するフランス軍将校たち(博物館のパノラマ絵)と、実際に司令部の上で勝利のベトミン旗を振る兵士
ジュネーブ協定の内容と参加国の態度
ジュネーブ協定は、「交戦当事者のベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム国(南ベトナム)、ラオス、カンボジア、フランスの5か国にアメリカ、イギリス、ソ連、中国の4か国を加えた9か国が参加して、ディエン・ビエン・フー陥落の翌日(1954年5月8日)から討議が開始され、7月21日に妥結した。この協定は、ベトナム、ラオス、カンボジアに関する三つの休戦協定(敵対行為の終止に関する協定)、各国政府が休戦協定の履行に関してそれぞれ単独に行った九つの宣言、会議の最終宣言との合計13通の文書からなる。
ベトナム休戦協定は1946年以来8年にわたるフランスとベトナム民主共和国との間のインドシナ戦争に終止符を打つもので、
(1)敵対行為の停止、(2)兵力引き離し(北緯17度線の南方で、第9号公路のやや北方に暫定軍事境界線を設け、ベトナム民主共和国軍は境界線の北側に、フランス連合軍(フランス兵、ベトナム・ラオス・カンボジア兵、外人部隊からなる)は南側に引き揚げる、軍事境界線の両側に幅5キロメートルの非武装地帯を設け、軍隊、軍需品、軍事物資はすべて非武装地帯から撤退ないし撤去する)、
(3)軍事情勢の凍結と非軍事化(増援部隊・補充軍事要員の導入、武器・弾薬・その他軍事物資の搬入、軍事基地の新設を禁止する)を定めたものである。
各国政府の宣言は、自国の領域を軍事同盟に参加させない、侵略政策に利用されることを許さない旨の決意を表明したものである。最終宣言は三つの休戦協定を承認し、各国政府の宣言に考慮を払う(テーク・ノート)ことを約したもので、要点は、
(1)軍事境界線は暫定的なもので、政治的、領土的境界ではない、
(2)ベトナムでは国際委員会の監視と管理下に1956年7月に総選挙を行って政治問題を解決する、政治問題の解決はベトナムの独立、統一および領土保全を原則として行い、ベトナム住民に基本的な自由を保障する、
(3)会議参加国はカンボジア、ラオス、ベトナムの主権、独立、統一および領土保全を尊重し、3国の国内問題に対する干渉をいっさい慎む、というものであった。休戦協定は交戦当事国の軍事代表者間で調印され、したがって一方の調印者はフランス連合軍司令官で、ベトナム国代表は調印に加わらなかった。ベトナム国は休戦協定に反対し、最終宣言には調印しなかった。アメリカも調印しなかった。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ジュネーブ協定」より。太字は私が付けたもの。)