ベトナム、統一、真の独立なる
パリ協定締結のころ、南ベトナム臨時革命政府が注目されたが、実は1968年の「テト攻勢」の失敗以来南のゲリラは大きな打撃を受けたままで、またこれを補うため国の南に派遣された人民軍も1972年の「春季大攻勢」の事実上の失敗で、勢力は弱っていた。ただし、北爆をしのいだベトナム民主共和国は健在で、アメリカ兵力が撤退する中、北から南へいざとなったら大攻勢をかけうる人民軍を保持していた。協定による停戦が完全に実現できれば、態勢、勢力立て直しが可能だった。過去2回の「大攻勢」の失敗から、安易に攻勢に出るのはできなかった。他方、110万人に達したサイゴン政権軍は、アメリカ軍撤退でも、南で軍事的に優位となっていた。そのため、革命政府側に攻撃を続け、その支配地域を奪って辺境に追い込むという戦略で、もし支配地域拡大・軍の展開拡散の隙をついて北から人民軍が大攻勢をかけて来たら、アメリカ空軍に支援を求めるつもりだった。これらの軍事的背景から、協定は、米軍撤退、一定の捕虜交換をした後、部分的戦闘は止まず、機能しなくなった。このサイゴン政権優勢の状況を変えたのは、1973年秋の石油ショックを契機として、1974年に全資本主義世界に起きたスタグフレーション(スタグネーション:不況 とインフレーションが同時に起きる現象)であった。原油価格の急激な高騰が激しいインフレを起こし、消費や投資、財政支出の機運を削ぎ不況に陥らせる、という危機であった。南では「物価上昇率は1973年の45%から74年には63%にたっした。これに米軍の撤退にともなってサービス部門の雇用が減少したことが加わって74年には都市労働力の1/3が失業状態という事態となり、都市住民の実質収入は1971年比で36-48%も減少した・・・。サイゴン政権の主柱であった・・・大半の軍人は軍からの給料だけでは家族を養えなくなった。そのため、軍人が住民から物を強奪したり、さらには革命勢力を相手に、石油・武器・食糧の闇商売をするといった現象が広がることになった。」(古田『歴史としてのベトナム戦争』p.58)
アメリカ依存の軍事経済体制に浸ったこの南ベトナムを、本来ならアメリカが援助して救うべところである。しかし、そのアメリカもドルショック以来、ベトナムも含めて海外援助を増やす余裕は無く、さらにベトナム戦争に批判的な議員が増えた議会は、全インドシナの米軍の戦闘行動への財源打ち切りを決めた。さらに大統領に与えた権限、すなわち議会の承認なしに米軍を海外での戦闘行動に使用することを制限する法律も成立させた。こうして、サイゴン政権が苦境に落ちて展望を見いだせず、その支柱が腐ったまま放置されていった。革命勢力側では、テト攻勢失敗以来、南の解放戦線の軍事力よりも、北のベトナム民主共和国の人民軍の比重が高まっていた。1974年に「南」側の危機と、アメリカの再介入の困難な状況を知って、共和国指導部の多数は時節到来を確信し、戦争を長引かせてベトナム全体をさらに苦境に追い込まないよう(もっともこれは勝った者の勝手な言い分であったかもしれない)、一気にサイゴン政権を倒すという大作戦(ホーチミン作戦)に出ることを決定した。1975年「1月7日に革命軍がサイゴン西方のフォクロン省を解放した・・・。協定調印以後初めての省・・・解放となった」(古田 前掲書p.61)という事実が大作戦実行の決定を後押しした。「北ベトナム側にとってはこのフォクロン省制圧はきわめて重大な戦略的意味があった。・・・同省占拠の目的の第一は新輸送路の開通だった。北側は和平協定の成立直後から第二のホーチミン・ルートともいうべき新しい補給路の建設を始めた。南ベトナム最北端のクアンチ省からラオス、カンボジア沿いにサイゴン北方のビンロン省ロクニンにある革命政府の行政中枢へと延びる一大戦略道路だった。1974年12月ごろにはその道路が中部高原を下ってクアンドク省まで完成され、終着点のロクニンに届くにはその手前にあるフォクロン省を制圧することが不可欠となった、という事情だった。第二の目的はさらに遠大だった。明らかに和平協定違反となる軍事攻撃を実行したことにアメリカがどう反応するかをみるという目的だった。・・・ベトナム労働党のトップ、レ・ズアン第一書記までがアメリカ軍の再介入の可能性を心配していた・・・。・・・だがアメリカは動かなかった。その結果、北ベトナムの労働党政治局は重大な戦略的決断を下した。」
(サイト「Japan-In-Depth」の「ベトナム戦争からの半世紀 その11 運命の年の幕開け」より https://japan-indepth.jp/?p=87393 )
1975年、3月10日に、用意周到に計画された革命側の大攻勢が、南ベトナム中部高原のバンメトートで開始され、この省を瞬く間に陥落さけた。
ベトナム人民軍参謀総長の「ズン参謀総長の回顧録によれば、北軍がバンメトートを中部高原での最初の攻撃目標に選んだ理由はこの中級都市が省都としての重要性のわりに防御が手薄なことだった。南ベトナム政府軍は同じ中部高原でもバンメトート市の北200キロほどのプレイク、コンツム両省を伝統的に戦略的な要衝とみなし、その両省の防衛を強化してきた。北軍も過去において1972年春季大攻勢の際のようにプレイク、コンツム両省への攻撃を実際に激しく断行した実績があった。だが当の南ベトナム側もこの時点での北軍の中部高原での大規模攻勢は予測していなかった。ましてバンメトート市への集中的な攻撃は計算に入れていなかった。当時の南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は1974年末には以下のような読みを固めていた。
「共産側は1975年には南の省都を正面から大規模攻撃をするような動きにはまず出ないだろう。当面の目標はサイゴン北方のタイニン省あたりであり、その規模も大規模ではなく、時期も2月から雨期の始まる6月ごろまでの間だろう」だから75年3月の中部高原での大攻勢は予期していなかったわけだ。北ベトナム側は南のこの読みまでをも察知していた。だからバンメトート市への奇襲が成功する素地はますます大きかったということである。南ベトナム軍の中部高原を担当する軍区は第2軍管区とされていた。当時のその軍管区の司令官はファム・バン・フー将軍だった。このフー司令官も万が一、北軍の中部高原での攻撃が開始されれば、必ずプレイクとコンツムが標的になるだろうと判断していた。その判断を北軍のズン参謀総長は把握していたのだ。
ここで北ベトナム人民軍の基本戦略の特徴について説明しておこう。ベトナム戦争での革命側の軍隊の戦い方といえば、ゲリラのような勇猛果敢な戦士たちが人数でも装備でも優位に立つアメリカ軍や南ベトナム軍を相手として獅子奮迅の闘争を挑む、というイメージが日本などでも強かった。物理的に劣勢の革命戦士たちが強固な精神力や士気で強敵を倒す、という図式である。一騎当千の革命闘士たちという構図でもあった。だが現実は異なっていた。革命側のゲリラが圧倒的に数の多い南ベトナム政府軍に敢然と戦いを挑むという場面も一部ではもちろんあっただろう。だがズン参謀総長の回顧録が明らかにした北ベトナム軍の基本戦略はそんな精神力重視策とは正反対だった。彼我の戦力を事前に冷静に比較し、最後の最後まで物理的な優位を確実にしたうえで、攻撃を実行するという戦略だった。冷徹に合理的に、味方と敵の戦力比を3対1,あるいは5対1という圧倒的優位を確立したうえで、初めて攻撃に踏み切るという現実的な戦法だったのだ。・・・
その後すぐにズン将軍自身もバンメトート攻撃の最高司令官として『バンメトート周辺では歩兵ではわが軍の5.5に対して敵は1、戦車、装甲車は1.2対1,重砲は2.1対1と圧倒的な優位に立つことができたため、攻撃の最終決定を下すことができた』と回想していた。」
(サイト「Japan-In-Depth」「ベトナム戦争からの半世紀 その14 北ベトナム軍の多層な戦略」https://japan-indepth.jp/?p=87536より )
この後、革命側からの攻勢により、サイゴン政権軍は雪崩のように崩壊した。その崩壊の速さには人民軍も驚いた、という証言が多数ある。3月13日 ティエウ大統領、秘密裏に南の中部高原撤退・海岸部終結命令。しかし、徹底せず、撤退が遅れているところを人民軍が待ち伏せ攻撃。
3月18日 ここのサイゴン軍(第2軍団)はほぼ壊滅
3月19日 人民軍、フエに進撃
3月25日 ほとんど交戦が無くフエ陥落。避難民ダナンへ殺到 ダナンは道路・港・空港がパニック状態
3月29日 ダナン陥落。サイゴン政権軍の北部、中部戦線消滅。
4月9~21日 サイゴン東方60kmのスアンロクで最後の激戦。21日陥落。ティエウ大統領「アメリカは我々を見捨てた」と演説し辞任。台湾に亡命。新大統領ズオン・バン・ミン
4月26日 サイゴン包囲完成。この間、タンソンニャット空港が砲撃を受け、空路脱出不能となる
4月27日~市街戦
4月29日 米大使館脱出作戦開始 米軍ヘリが大使館屋上に着陸 米国人・南ベトナム人協力者を大量に救出

(左)攻撃を受けるサイゴン空港 (中)アメリカによる「南ベトナム人」救援 (右)次々と避難する南のヘリが空母ミッドウェイに来るのを着陸させるスペースを作るため、使ったヘリを海に落としているところ (いずれもパブリックドメイン)
そして、4月30日 ベトナム人民軍戦車(T‑54)が大統領府に突入し、ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏して、サイゴンは陥落し、「南ベトナム共和国」は消滅し、ベトナム戦争は終結した。
(この大統領府とそこに突入した戦車については私のサイト「1975年4月30日 戦軍が突入した大統領官邸」 m-mikioworld.info/touitukaidou.htmlもご覧ください)戦死者は、アメリカ側の正式発表と推測で、アメリカ兵58,193名、ベトナム革命側約130万名、サイゴン政権軍約20万~25万人。

17度線近くの「無名戦士の墓」。爆弾で皆吹き飛ばされた遺体は、誰が誰だか分からない状態だったので、遺体は別の所に埋葬され、これらの墓には遺体が無い、とガイドは言っていた。
最後に、このベトナム統一が「北」側の武力による統一になったことについては、理想論、建前論からいっても私もすっきりしないが、次のような角度で、考える材料を提供したい。
パリ和平協定(1973年) とベトナム統一についての Q&A
Q1:パリ和平協定って、何のために結ばれたの?
A1:ベトナム戦争を終わらせるためです。 アメリカ、北ベトナム、南ベトナム政府、南ベトナム解放民族戦線(PRG)の4者が話し合い「戦争をやめて、南ベトナムの将来を話し合いで決めよう」という合意をつくりました
Q2:協定は南ベトナムをどう扱ったの?
A2:南ベトナムには“二つの政治勢力が共存する”と定めました。
サイゴン政府(南ベトナム共和国) 南ベトナム解放民族戦線(PRG)この二つを「どちらも正当な勢力」と認め南ベトナムの将来は、南ベトナム国民自身が決めるとしました。Q3:南ベトナムの将来はどう決めることになっていたの?
A3:三者(政府・PRG・中立派)でつくる“民族和解評議会”が話し合って決めることになっていました。この評議会が新しい政治制度、選挙の方法、統一の方向性などを決めるはずでした。
Q4:アメリカ軍はどうなることになっていたの?
A4:アメリカ軍は完全撤退することが義務づけられました。協定後、アメリカ軍は実際に南ベトナムから引き上げました。
Q5:北ベトナム軍は撤退したの?
A5:いいえ。北ベトナム軍は南に残ってよいことになっていました。協定は北軍の撤退を求めていません。これは南ベトナム側にとって大きな不利でした。北ベトナムの主張では、ジュネーブ協定を認めなかった南側は「国境」の主張はできない、ベトナムに元々国境は無く、ベトナム人民軍はベトナム全土に展開する権利を持っている、としていました。
Q6:協定は「戦いを続けてもいい」と言っていたの?
A6:いいえ。協定は“停戦”を命じていました。武力で相手の支配地域を広げることは禁止 停戦ラインを守ることが義務。つまり、戦闘の再開は協定違反です。
Q7:では、1975年に北が南を攻めて統一したのは協定違反?
A7:国際的には「協定違反」と批判されています。協定は武力による支配地域の変更を禁止していたため、北の1975年の大攻勢(ホーチミン作戦)は停戦条項に反する行動と見なされます。
Q8:でも北は「自衛だ」と主張したって本当?
A8:はい。北は「南が協定を守らなかったから」と主張しました。北の主張は:サイゴン政府が停戦を破った。協定に書かれている政治犯を完全に釈放しなかった。民族和解評議会設置を妨害した。解放戦線支配地域を攻撃した。だから「反撃しただけだ」という立場でした。
Q9:南ベトナム政府は協定を守っていたの?
A9:南も協定違反をしていました。反共作戦を継続。解放戦線地域への攻撃。政治犯の全員釈放拒否。民族和解評議会の設置を妨害などが国際的に批判されています。
Q10:結局、パリ和平協定はどうなったの?
A10:南北双方の違反によって崩壊し、1975年に北が統一しました。協定は戦争を終わらせるための枠組みでしたが双方が完全には守らず、政治的解決は実現しませんでした。結局、力のあった方が勝ったのです。
最後に
パリ和平協定は、南ベトナムの将来を“話し合いで決める”ための約束だった。しかし南北双方が協定を守らず、最終的には北の軍事行動によって統一が実現したのが事実。私個人の意見で言えば、「北」も「南」の革命勢力も協定を守って解決してほしかった。ただし、いろんな意見があるが、最後の統一の方法論の是非は置いておけば、「南」政府はアメリカという支援が無くなれば崩壊した、やはり「傀儡国家」だったとしかいいようは無かろう。「北」のベトナム民主共和国の立場から見れば、一貫してホーチミンの独立宣言以来、ベトナムの真の独立をフランス、アメリカと戦って勝ち、ジュネーブ協定で実現が目指されたベトナム統一をやっと勝ち取ったといえよう。「南」側にアメリカがついて直接参戦したことからも、「米ソの代理戦争」という表現は当たらないだろう。さらに「北」はソ連・中国の物資や軍事指導も受けたが、2026年1月現在、ウクライナがNATOやアメリカ(トランプはそう断言できないが)の武器支援を受け戦っているが、これを「NATOやアメリカの代理」だと言う人はほとんどいないことと同じであろう。ホーチミンの「独立と自由ほど尊いものはない」を指針にベトナム独立を目指して一貫して戦ったのである。この意味でも、また、ベトナムはソ連や中国の対米接近を批判し、またソ連や中国のために戦ったのではないから、「米ソ代理戦争だった」という表現は間違っていると私自身は考えている。
私のこの拙いサイトを御覧になり、ベトナムについて少しでも興味を持っていただければ幸いである。私も今後のベトナムの行方を注目していきたい。