双方に打撃となった「テト攻勢」から、戦争の「ベトナム化」、パリ和平協定へ
テト攻勢
アメリカ側の戦争作戦の行き詰まりを感じた革命側は、一気に勝負をかける戦術をとった。サイゴンはじめとする都市部で不意打ちをかけ、都市部での蜂起を起こし、サイゴン政権を倒して世界に衝撃を与え、アメリカを撤退に追い込むというものだった。その不意打ちを1968年1月30日のテト(旧正月)期間に実行した。これまで、双方ともベトナム最大の国民的祝日のテト期間内は「テト休戦」を暗黙の合意で実施していた。革命側は、アメリカ軍の主力を引き付けるため、南の非武装地帯から最も近い所にあったケサン基地に攻撃を集中する陽動作戦をとり、同時にサイゴンをはじめとする都市に突入し、一時アメリカ大使館を占拠したり、フエを3週間占拠するなどしたが、都市での反政府蜂起は起きず、アメリカ軍は短期間で原状回復を行った。革命側は、この間、南の解放戦線のゲリラの主力も動員して波状攻撃を都市にかけようとしたが、やがてすべて突入前に食い止められ、大きなダメージを受け、全体としてこの年の戦死者は18万人とベトナム戦争史上最大となった。他方、アメリカも、ジョンソン大統領が「戦争は勝っている」と言い続けていたのに、サイゴンの大使館がゲリラに占拠されたところがテレビ放映されるなどして、国民の疑念を高め、反戦、ベトナムからの撤退の運動の高揚を作ってしまった。結局、大統領は3月に、アメリカ兵派遣増員停止と、北爆の部分停止を宣言せざるを得なくなり、ベトナム民主共和国に和平交渉を呼びかけることになった。パリで和平会談が始まった。

ケサン基地跡。アメリカ軍はケサン攻防戦では、基地を守った約6,000名の海兵隊に加え、救援作戦に約20,000名、空軍支援に約40,000名が投入された。

ゲリラが攻撃し、侵入したアメリカ大使館と、ゲリラが破壊して侵入した穴(パブリックドメイン)

左はホワイトハウス前の抗議(パブリックドメイン)
右はシカゴのデモ(Photo by David Wilson, Oak Park, Illinois, USA
Licensed under [CC BY2.0](https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/) File: 19680810 19 Anti-War March (6056934659).jpg Created: 9 August 1968 / Uploaded: 4 November 2016)
共に1968年のもの
ニクソン大統領による戦争の「ベトナム化」など新たな戦略
北爆・アメリカ軍の南への大量投入戦略に事実上失敗した民主党ジョンソン大統領の後、1969年、共和党のニクソンが大統領になった。彼は新しい戦略を四つばかり展開した。一つ目は、内外世論のアメリカ軍撤退要求に応じて、段階的にベトナムにいるアメリカ軍を撤退させること。同時に、大きく援助して、南ベトナム政府軍に戦争継続能力を付けて革命勢力と戦わせる、戦争をベトナム人同士でやらせる「ベトナム化」を進めること。1970年に40万人だったアメリカ兵は、71年7月には22万5000、72年7月には5万弱と減らしていった。一方、南ベトナム軍にはアメリカ軍の装備を与え、1968年には82万だったのが72年には100万人をこえた。二つ目は、南のゲリラが打撃を受けたこの時期に、農民の多くをサイゴン政権側に積極的に取り込むことであった。アメリカの援助を農村にも振りまいたことなどで、「農村の総人口中、サイゴン政権の掌握下にある人びとは、1969年の48%から71年には76%にまでたっした。」(古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』p.45)三つ目は、カンボジアの情勢変化をとらえて、カンボジア内のベトナム革命勢力の影響を断つため、カンボジアにアメリカ軍を一時投入したり、ラオスにまで侵攻して同影響力を断とうとしたことである。具体的には、それまでホーチミンルート許容など革命側と協調していたシアヌーク国王政権に対し、反対派ロン・ノルが1970年3月、クーデターを起こし、シアヌークは北京に亡命した。ロン・ノルは直ちにカンボジア内のベトナムの革命勢力に攻撃を開始し、アメリカとサイゴン政府軍も4月にこれに加わった。さらに、1971年2月にはラオスのホーチミン・ルートを攻撃するためサイゴン政府軍2万を投入した。四つ目は、当時ソ連と中国が国境紛争まで起こして対決していた状況を見て、それぞれ訪問して平和ムードを作り、ベトナムへの支援を減らすように仕向けたことである。ニクソン大統領は、1972年2月に訪中し、同年5月には訪ソして、支援を減らしたり、アメリカの臨むような和平内容にベトナム革命勢力が応じるように圧力をかけることを交渉した。

(左)カンボジアに侵攻した南ベトナム政府軍 (中)ニクソン訪中 (右)ニクソン訪ソ (いずれもパブリックドメイン)
この戦略の中で、カンボジア侵攻とラオス侵攻は、ベトナム民主共和国に「全インドシナ人民解放」として、その軍を両国に大規模に派遣する名分を与え、その投入があり失敗に終わった。しかし、ソ連と中国をアメリカに懐柔されたと見たベトナム革命勢力は、テト攻勢で大きく後退してしまった戦場での巻き返しを実現して、協定によるアメリカ軍の撤退の実現に向けて急ぐことになった。アメリカが撤退に動いたもう一つの大きな理由は経済的苦境だった。これまでの膨大な軍事費支出により、大量のドルを世界にばら撒いたため、定量の金(きん)といつでも交換可能ということで権威を持っていたドルそのものの価値が低下してしまったのである。一時的に、定量の金とドルの交換をストップしてから、新たに、下がったドルの価値で今まで通りドル中心の固定相場制(1$=360円から1$=308円へドルを切り下げて)を続けようとしたが、これも失敗し、現在の毎日各国通貨間の価値が変わるという「変動相場制」にまでなってしまったのである。この中で、ベトナム戦争での出費を続けるとさらにドルの価値が下がっていくことになった。1972年3月末から、戦車隊を伴った人民軍主力部隊は17度線を越え、南ベトナム政府軍を破り、クアンチを陥落させ、フエに迫る「春季大攻勢」を行った。しかし、アメリカも全面北爆を再開し、5月には、北ベトナム港湾の機雷封鎖という強硬措置で対抗した。中ソは形ばかりの抗議のみで、アメリカは空軍力だけは自由に使えることを示した。ベトナム革命勢力は中ソを「溺れる強盗に浮き輪を投げるもの」だと批判した。結局、クアンチも南ベトナム政府軍が奪回し、この「大攻勢」は失敗に終わった。しかし、この間、北から増強して南に展開した人民軍はかなり残り、戦線は膠着した。
パリ和平協定成立。アメリカ軍全面撤退決定。南に残留するベトナム人民軍の撤退不要も決定。
1968年から始まった交渉には、南ベトナム解放民族戦線を母体とした政府としての「南ベトナム共和臨時革命政府」を参加させるか否か、参加させる場合の各国の席をどうするかなどの「入口問題」で長期を費やすなど協議は停滞していた。しかし、南ベトナムに、双方が認めなくても、この「革命政府」とサイゴン政府があるという事実から、双方が互いの存在を認め、1972年夏から本格的な議論が始まった。アメリカは「我々も全面撤退するが、北の人民軍も南から撤退すべき」とし、革命側は「そもそもベトナムに南北の国境はないから撤退はありえない。グエン・バン・ティエウは辞任させよ。」と主張し対立していたが、アメリカが「人民軍の南からの撤退は必要なし」とし、革命側が、「ティエウの辞任は前提とせず、サイゴン政権と南の統一について今後交渉する。」というふうに双方が妥協して、協定が成立する方向に動いた。しかし、サイゴン政権はこの内容に反発したため、ニクソンは大統領に再選された後の12月に、ハノイヘの初めてのB52を使った本格的爆撃で多数の民間人犠牲者を出すなどの暴挙を行い、協定内容をアメリカ側に有利に変えようとした。しかし、人民軍や民兵にB52を15機も撃墜され、内外世論やアメリカ議会からの激しい反発を受け、それは叶わなかった。そして、1973年1月27日にパリ和平協定が成立した。このパリ会議で、私も含めて多くの人が驚いたのは、「臨時革命政府」の代表として登場したのが、アオザイに身を包んだ、会議で使われたフランス語が堪能だった40代の知的な女性、グエン・チ・ビンさんだったことだった。「革命政府」の外務大臣として会議に参加し協定に署名したり、マスメディアのインタビューに登場した。解放戦線=ゲリラ、というイメージを変えさせた。ちなみに、彼女は統一後のベトナム社会主義共和国の教育大臣、国会副議長、国家副主席を歴任し、2026年1月現在、高齢だがご健在である。

協定に調印するアメリカ代表団。 グエン・チ・ビンさんのポートレート。 (いずれもパブリックドメイン)
パリ協定は、正式名称「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」。「54年ジュネーブ協定によって認められた諸原則と南ベトナム人民の自決権の尊重を前提に,南ベトナム全域にわたる休戦を1月 27日 24時をもって実現すること,アメリカ軍および同盟国軍隊の 60日以内の完全撤退,南ベトナムの当事者による民族和解全国評議会の設置,停戦維持のための合同軍事委員会,国際管理監視委員会,国際会議の設置などを規定した。・・・しかし,パリ和平協定が,結局は南ベトナムにおける2つの政治勢力の支配地域を対立したまま凍結したにすぎなかったので,アメリカ軍撤退後も南ベトナムにおける政府側と解放戦線側との局地的武力衝突は絶えず・・・」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ和平協定」より)