アメリカによるベトナムへの本格的参戦⑵
大量のアメリカ地上兵力も投入
1965年、3月8日、中部のダナンにアメリカ海兵隊3500名が派遣されて以来、同年末には派遣されたアメリカ地上軍は18万4000名に上った。アメリカは、大量の兵士を送って、「第一段階として、南ベトナムに米軍の作戦基地体系を構築して戦略的要衝を確保し※サイゴン政権軍(当時約50万人 私注)を崩壊から救い、第二段階で革命側の主力部隊を捕捉してそれを破壊するという、二段階の作戦計画をたてた。・・・米軍が圧倒的な優位性をもっている機動力と火力に依拠して、革命側にその兵員補充能力を越える損失を与える消耗戦を展開することであった。・・・解放戦線が浸透している地域を『自由爆撃地域』に指定して米軍の砲爆撃によってその農村住民がサイゴン政権軍の支配地域に移住せざるをえない状況に追い込むことが基本的な方法とされた。」(古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』p.p.30-31)以下、この地上戦の詳しい経過を記すのが目的ではないので、パブリックドメインの写真で戦争の一端を垣間見てみよう。

左がダナン上陸


左は解放戦線と思しき者たちを連行している。右は殺害した別の写真。
「革命側」は北から大量動員し、戦術を工夫して戦争の主導権を握る
ベトナム民主共和国も、アメリカ軍の大量投入に対し、本格的に人民軍部隊を南の戦場に大量投下する道を選んだ。「1965年から68年だけで、北から南に送られた人員は30万人にのぼった。」(古田 前掲書p.33) 「米軍の参戦は、革命側に大きな損害を強いることになった。米軍側の推計であるが、、革命側の戦死者の数は、1964年の1,7000から65年には35,000と一挙に2倍以上になり、以後も増加の一途をたどった。」(同p.33) 1969年3月にはベトナムの米軍は54万8000人までになった。さらに、アメリカは同盟国にも派兵を要請し合計約40万人以上の兵士が派遣された。最大の貢献国は韓国(約32万人)であり、オーストラリア(約6万人)が続く。これらの部隊は南ベトナム支援のため、戦闘・医療・後方支援に従事した。しかし、北からの戦力補充は大きく、補充能力を消耗させるという米軍の目標は達成されなかった。「革命側は好ましい場所と時間で戦いをいどむ、戦闘の主導権を掌握できた。・・・米軍の大部隊との正面衝突を回避しつつ、米軍の火力、機動力の優位を相殺できる山岳地帯やジャングルに主力軍を配置して米軍を引きつけ、手薄になった平野部に主力軍を分散させて進入し地元の部隊とともにゲリラ戦を強化するなど、主力軍、地方軍、民兵の総合力を生かした戦術で米軍を悩ました。」(古田 同書p.35) なお、この古田氏はこれだけの動員ができたのは、ベトナム民主共和国がその「社会主義政策」として、農民を「合作社」という組織に組み込んだことが大きかったとしている。中国などの人民公社に似たもので、分配は平等原則で行われた。歴史的には、どの国でも、市場と、努力に応じた収入のシステムを求めて解体していくが、ベトナムでは、頭の上を爆弾を落としに来る軍用機に耐え、対抗するため、「貧しさを分かち合う社会主義」はかえって受け入れられ、「1965年から75年まで125万は下らないと思われる、南の戦場への北からの人員補給能力の大きさであった。」(古田 前掲書p.101)南ベトナムの農民ゲリラの状態の一端を教えてくれるのが、観光地としても公開している「クチ・トンネル」である。
ホーチミン市クチ地区に広がる総延長250kmの地下トンネル網で、解放戦線や北からの兵士の隠れ家・補給路・司令部、そして日常生活の場として使用された。1940年代に掘られ始め、ベトナム戦争期に大規模に拡張された。トンネルは狭く複雑で、アメリカ軍は、結局制圧できなかった。

米軍の爆撃があっても耐えられたというクチ・トンネルの模型。これは全体のほんの一部。
これからの説明は、ガイドから受けたものである。
入口は、身体の大きなアメリカ兵では入れない大きさで、その場所は木の葉などで覆って自然に見せかけ隠していた。実際に中に入る体験もでき、いろいろなコースがあるとのことだが、ガイドは私が膝を痛めていることを配慮して、ほんの数分の一番短いコースにしてくれた。ゲリラの恰好をした案内人が入口から出口まで誘導してくれる。私は旅行でここに入るので、スーツケースにかさばった上下のジャージを詰めてきたが、私のコースでは、普通のシャツにズボンでほとんど汚れず、「何のためわざわざスーツケースを重くして来たのだろうか」と考えてしまった。地下の穴は観光のため少し拡大したとのことだが、それでも初めて入った私には狭く感じた。また、とにかく低い。ところが一部の高い所に下る大きな段差があり、少し飛び降りることになって「痛っ!」と1回だけ悲鳴を上げてしまった。くぐり終わった後、ゲリラが食べていたというキャッサバを蒸した?ものの試食が待っていた。コリコリして食感は悪くないが味が無いのでピーナッツを砕いたもの・砂糖・塩を付けて食べる。不味くは無いがもし、毎日これなら私は嫌になる。

入口と下へ降りる階段
トンネルの実体験。入口は観光用に修築したものだろう。中はかがまないと通れない高さ。

だんだん低くなる。やっと出口。これも綺麗に修築しているようだ。

トンネル体験の次は食事体験。キャッサバ。
クチ・トンネルでは、地下深くのかまどから数十メートルの煙道を通して煙を冷却し、粒子を沈殿させ、アリ塚や草むらなど複数の偽装出口から霧のように分散させた。出口には“湿った布・泥・砂”を詰めて煙をさらに拡散。さらに早朝の霧に紛らわせることで、米軍に煙を発見されないようにした。

地下に作っていた調理場の再現
また。換気のための穴は、アリ塚を利用して偽装したとのこと。

この他、トンネルの中で実際に不発弾から火薬を取り出し手榴弾を作っていたことを人形を使って展示していた。

様々なスタイルの、気付かれないように穴を覆っておき、踏ませて地下に落として毒の付いた尖った棒で突くという罠も展示されていた。

こういう地下に張り巡らした「アリの巣」から出没するゲリラにアメリカ軍が手を焼いたことは想像できる。しかも、サイゴンの近くにこのようなものがほぼ無傷であったというのは驚きである。これを破壊する特殊部隊を作って、人間や煙を嗅ぎ分ける軍用犬も動員したが、ゲリラは唐辛子のガスを嗅がせて犬の鼻をだめにして対抗したということである。また、戦争で、一番困ったのは、ゲリラとそうでない農民の区別がつかない、ということだった。

ゲリラの男女。履いているのは奪った兵器のタイヤゴムから作った「ホーチミンサンダル」。ソ連から援助を受けて使った銃も展示されている。
クチには、お金を払って、ライフルの実弾射撃を10発体験できるコーナーがあった。やってみるつもりだったが、その場の近くに行ったら。ものすごい大きく恐怖を感じる発射音が続いていた。怖くなったし、一緒にいたがいどから私の「雄姿」の撮影が禁止されているということで取りやめた。実際の戦場では、あのような恐ろしい音が鳴り響いているかと思うと、本当に戦争は本能的に恐ろしいものだと実感した。