イタリア支配下に広い「解放区」を形成するが大反攻を受ける
---1942年のパルチザンの戦闘

 1942年になると、ドイツの占領下でもイタリアの占領下でも、パルチザンへのファシスト軍の激しい本格的反撃の戦闘や協力した民間人の村全体の殺戮などがなされた。しかし、イタリア占領地域の南部で、パルチザンは広い「解放区」を形成し、初の「行政府」も作った。
 なお、このページ以降に記述するパルチザンの活動、戦局の推移、軍事組織の発展などの軍事史的事実は、特に断りのない限り、
Zdravko Klanjšček(ズドラヴコ・クラニシェク)著『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(ベオグラード軍事歴史研究所、1984年)のPDF版
を基礎資料としている。この書物は、当時のユーゴスラビア軍事史研究の中心機関が、作戦記録・部隊日誌・指揮官報告などの一次資料を参照して編纂した軍事史の基本文献である。もちろん、当時のユーゴスラビアの歴史観が反映され、共産党の役割が強調されるなどの偏りは存在する。しかし、日本語でスロベニアの第二次世界大戦期の軍事史を体系的に参照できる資料は極めて限られているため、本サイトでは 同書から“史実として確認できる部分のみ”を抽出し、政治的解釈を排した形で記述する。そして、戦局の最後のところは、スロヴェニアが国として屋外展示している公的な事実経過を参考としてまとめた。
 これからのサイトの内容を読んでいただければお分かりいただけると思うが、私はこの書を読む前は、スロヴェニアのパルチザンは、ゲリラ活動に終始し、チトーらのユーゴパルチザン本隊が来てスロヴェニアの解放がなされた、という認識だった。しかし、彼らは、想像以上に、広い解放区を築いたり、散発ゲリラ組織から国家の軍として成長したり、独自の政府を樹立したり、最後の解放の戦いでもユーゴスラビア軍の一員として奮戦するなど健闘していた。
 
リュブリャナの鉄条網による包囲
 パルチザンは、1942年になっても、鉄道や通信設備の破壊活動、敵兵の散発的な襲撃というゲリラ活動を続けていた。このスロヴェニア・パルチザンの総司令部はリュブリャナに置かれていた。しかし、リュブリャナを併合していたイタリア軍は、2月から「強い抵抗運動を打ち砕くため、・・・街を30キロの有刺鉄線で囲み」という行動に出た。市内と市外のパルチザンの連絡を、人の出入りを統制して断とうとしたのであった。占領軍が有刺鉄線、バンカー、機関銃陣地、地雷原で都市を包囲するという決断は、当時の占領下のヨーロッパにおいて特異なものだった。これは5月に完成したため、パルチザン総司令部はリュブリャナから移転せざるを得なくなった。もちろん2025年時点ではその有刺鉄線は除去されているが、その在った場所は実際に下の写真のように緑地と7000本の樹木で囲む「記憶と友情の小道」として整備され、毎年恒例の「3月の行進」——年次レクリエーション・社会行事——を通じて、今も占領時代を記憶し続けている★。トーチカの残骸も史跡として残されている。
 
左は当時の写真(パブリックドメイン)
右の地図中の赤いポイントを含むNa Žalahの直線の道は、鉄条網があった場所の一部で、『記憶と友情の小道』となっている。それが下左の東南東を向いた写真である。この道は、ここではまた、2025年時点で、Žaleジャレ墓地の中を通っているものである。
下右の写真は、地図中のNa ŽalahとTomačevska cesta
の交差している場所から西北西へ延びる『記憶と友情の小道』。このモニュメントは、1970年代に新しく旧来のジャレ墓地に接して作られた、新ジャレ墓地の入口でもある。これについて
RTVSLO(スロベニア国営放送)の文化記事では、次のように説明されている:“The symbolism of the entrances is enhanced by the inverted pyramids connected to the columns, whose form points to the eternal ascent into infinity.” (入口の象徴性は、柱に接続された逆ピラミッドによって強調されており、その形は永遠への上昇を指し示している。) 引用元:RTVSLO文化記事「Edino pravo slovensko mesto mrtvih」(2021年) https://www.rtvslo.si/kultura/drugo/edino-pravo-slovensko-mesto-mrtvih/157066  (カラー写真はいずれも2025年4~5月筆者撮影)

 


  
バンカーの残骸はここにある。中に鉄条網がどのように巡らされていたかを赤い線で示す地図がある。私が黄色の➡でこのバンカーの場所、オレンジの↓で上のNa Žalahの『記憶と友情の小道』の場所を示した。

 


リュブリャナでの大量虐殺。 反パルチザン「白衛軍」結成 

 さらに、1942年2月から、パルチザン活動に対し、特にリュブリャナなど占領地域でイタリアによる報復、見せしめの組織的な市民虐殺が行われた。リュブリャナのジャレ墓地に近い、Gramozna jama(♯グラモズナ・ヤマ。意味は砂利採掘所 私注)は、・・・残酷さの象徴的な場所であり、少なくとも185人の人質が処刑され、その多くは今もなお身元不明のままである。・・・銃殺された人質は、イタリア軍パトロールによる街頭検問で逮捕された者の中から無作為に選ばれ、裁判もなされないまま、『48時間以内にパルチザン活動の首謀者が発見されなかったため、共産主義活動に関与した罪は確実である』という理由で処刑された。人質たちは、イタリア正規軍の兵士たちによって、・・・銃殺された。・・・イタリア占領軍は、新聞やビラで、判決の執行を公式に発表した。その場所には追悼の記念の碑と像が立てられている。

 
記念碑の位置を示す地図

  
犠牲者記念碑と刻まれた犠牲者の処刑日・名前・生年


記念碑のある所の脇の道を真っすぐ行ったところに像がある。


建築家Vinko Glanzヴィンコ・グランツが設計し、Borisa Kalinaボリサ・カリナが製作した「死にゆく人質」の像(1947年制作)。1957年に記念碑群として公開、2003年に文化記念物に指定。1回盗まれ、壊され金属回収業者に一部が売られそうになったものを復元したもの。
(https://www.rtvslo.si/kultura/drugo/talec-je-rekonstruiran-kopija-na-ogled-v-gramozni-jami/287675より) (写真はいずれも2025年4月筆者撮影)


「白衛軍」との戦い
 
1942年春、スロベニアでパルチザン蜂起が急速に広がると、カトリック聖職者・保守政治家・旧ユーゴ軍将校らが中心となり、スロベニア独自の反パルチザン武装勢力(白衛軍=Bela garda) を組織し始めた。この初期部隊は、パルチザンの帽子や徽章で偽装しながら活動していた。この白衛軍部隊はイタリア軍と正式に協力関係を結び、武器・弾薬・食料・医療支援を受けていた。重要なのは、この勢力がスロベニア特有の宗教的・保守的反共勢力である、という点である。白衛軍はイタリア軍と協力してパルチザン弾圧に深く関与した。同時に、農村では「パルチザンに対抗するよう武装すれば命と財産を守れる」「収容所送りを免れる」という宣伝を広め、村の「自警団」(vaške straže)を各地に組織した。最初の自警団はポストイナ周辺で結成され、その後、コチェフスキ・ログの森の地域、さらに南東部ノヴォ・メストを中心とする地域へと広がっていった。白衛軍や自警団は「共産主義から信仰を守るため」と主張したが、実際にはイタリア占領体制の一部として占領軍の支配を支える役割を果たしていた。また、「スロベニアの運命は戦後の会議で決まる。それまで占領軍に従うのが賢明だ。」と宣伝し、住民を取り込もうとした。占領軍の戦闘隊形の一部として行動し、主要な戦略地点の警備に使われた。スロヴェニアで、占領下という特殊な状況の中で内戦が煽られる危険が生じた。パルチザンと解放戦線(OF)は、民族の団結が最も必要な時期に、背後から「裏切りの一撃」を受けた形になった。この背景には、イギリスの亡命ユーゴ王国政府や、チトーのパルチザンにセルビアやボスニアで敵対した「チェトニク」がいた。
 白衛軍の村落警備隊(seoske straže)の成長を止めるため、これらを優先的に攻撃する方針が取られた。ただし、その組織者には厳しく、恐怖から参加した者には寛容に対応するという区別が求められた。村を包囲し、住民集会で説明し、武器を回収するという方法が推奨された。住民への不当な扱いは厳禁で、暴力は重罰の対象とされた。

大隊から旅団の編成へ。そして解放区の成立。
 4月5日、スロベニア初のパルチザン旅団「第1パルチザン旅団」が3個大隊、計300名以上で、リュブリャナから東南東約35kmのSelo pri Šumberkuセロ・プリ・シュムベルク村の森で正式に編成された。機関銃、軽機関銃の武装であった。旅団司令部には無線通信班が直属した。これは当時 スロベニア最強のパルチザン部隊となり、ユーゴスラビア全体でも3番目の旅団規模だった。
 この第1パルチザン旅団を中心に編成された約500名の戦闘グループは、リュブリャナ—ノヴォ・メスト鉄道を線路を爆破し続けた。また、6月12日までに、小部隊による奇襲、側面・背後からの攻撃、夜間行動、森林と起伏を利用した機動戦を繰り返し、約4,000名のイタリア軍を疲弊させ、小拠点を撤退させ、大拠点へと動かした。イタリア軍は重火器の優位を生かせず、戦術的に完全に振り回された。
 これはさらに広げられ、Sodražicaソドラジツァ近郊からクロアチア国境をつくるクパ川北岸まで、連続した広い解放地域が形成された。パルチザンが地域を解放すると、まず OF(解放戦線)の地域委員会が統治を引き継ぎ、その後、住民が選挙で NOO(人民解放委員会)を選出する仕組みが整えられた。こうして、軍事的な解放に続いて、政治的な「解放区」も成立していった。この制度は、1942年5月17日に OF 執行委員会が下した「解放地域に人民権力を確立する」という決定に基づくもので、18歳以上の男女すべてが参加する選挙によって NOO を民主的に選ぶよう指示されたものである。さらに、解放区の行政制度を整備するため、6月27日には人民解放評議会(Narodnoosvobodilni svet, N.O.V.)が設立された。これはスロベニア全土を代表する国家機関ではなく、パルチザンが実効支配していた「解放区全体」を統治する「政府」に相当した。評議会は行政・連絡・財政・司法・教育・宣伝・農業・食糧の8部門で構成され、占領者国籍の地主や「民族の裏切り者」に属する大土地所有を没収するため、郡レベルに没収委員会を設置し、没収財産の管理を行った。この結果、Kočevski Rogコチェフスキ・ログを主拠点とした南部パルチザン部隊が作った小さな解放地域は、徐々に連結し、クルカ川、ポリャナ、ツルモシュニツァ谷、コチェフスキ・ログ に至る広い軍事的解放区となった。


(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』の記述を基にして作成)
コチェフスキ・ログがOF・共産党・パルチザンの拠点で、「人民解放委員会」があった。

 しかし、同6月、コチェフスキ・ログで開かれた共産党の会議で、「あるパルチザン指揮官たちが自分の地域で“小さな領主”のように振る舞う“軍閥主義(vojvodstvo)”という汚点について克服されるべきだ。」という指摘がなされたなど、パルチザン側にはいくつかの弱点があった。
 なお、沿岸地方では、イタリアの強力な軍・警察支配下で壊滅していた解放戦線組織を再建し、活動地域を着実に広げていた。女性や徴兵逃れの若者が新たに活動を担い、トリエステでは都市組織が復活したうえ、イタリア人労働者の反ファシスト組織と結びついて工場に共同委員会を設立した。これにより、サボタージュやストなどの都市型抵抗が発展し、イタリア人との協力関係も形成された。さらに、小規模な破壊工作・宣伝・動員活動を積み重ねることで地域全域に存在感を拡大し、1942年8月には大隊を結成できるほどの戦力に成長した。 


イタリア占領軍による大規模なパルチザン殲滅作戦とパルチザンの対応
 イタリア占領当局は、主要交通路沿いの拠点を除く地方全域で反乱が広がり、占領軍の拠点が逆に包囲されるような状況になっており、占領地域全体がもはや維持不可能であると判断した。状況を安定させるには、大規模で決定的な軍事行動しかないと考えた。そのため、新たに兵力、武器を動員し、82,000名とし、パルチザンとの兵力差は27対1、火力差は比較にならないほどだった。また占領密度は異常に高く、住民4人につき兵士1人がいる計算であった。
 占領軍はまずリュブリャナ市内で大規模な検挙作戦を実施した。6月24日から7月1日にかけて、密告者20名の協力で2,858人(学生800名を含む)が拘束された。 この6月の大検挙は解放運動に甚大な打撃を与え、指導部の多くの役割を女性が引き継ぐことになった。
 軍事的大攻勢は、解放地域を対象に、1942年7月16日から11月4日まで続けられた。投入兵力、期間、作戦範囲のいずれをとってもユーゴスラビアで最大級の作戦であり、イタリア軍がスロヴェニアで行った唯一の大規模攻勢だった。
 
7月16日、イタリア軍はリュブリャナの南10kmのクリム山地域を包囲した。続いて機動部隊が歩兵隊形でパルチザン陣地へ向けて同心円状に前進した。イタリア軍はクリム山地域と森林地帯、そして南へ向かうイシュカ渓谷を捜索した。しかしパルチザン側は地形を熟知していたため、主力はトラヴナ山へ、別の一部はリュブリャナ峰を越えてポルホグラツケ・ドロミテへと脱出することに成功した。イタリア軍はどの部隊も完全にパルチザンを包囲することはできなかったが、主力から離れた小グループは捕らえた。

7月16日からのイタリア軍の掃討作戦(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.142の地図を基に作成。)

 7月24日〜8月13日の攻撃は最も長期にわたった。イタリア軍の目的は、パルチザンをSodražica ソドラジツァを中心とした線から、Kočevje コチェーヴェを中心とした線へと押し下げ、そこで殲滅することだった。険しい地形を歩兵隊形でしらみつぶしのように捜索していった。パルチザン部隊は、敵との直接戦闘よりも、士気低下で家に戻ろうとした兵士の離脱によって多くの損失を出した。部隊は場所によっては小グループに分かれて包囲を突破し、包囲内に留まらざるを得ない場合は険しい地形に身を隠した。

7月24日からのイタリア軍の掃討作戦((『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.142の地図を基に作成。)

 8月14〜23日には、イタリア軍は約4万人の兵力を投入し、コチェフスキ・ログの山塊(約120平方km)を全周40kmの包囲線で完全に囲んだ。 包囲線はほぼ1メートルごとに兵士が並ぶほどの密度で、森の中を一歩ずつ捜索し、内部のパルチザンすべてを殲滅しようとした。この包囲の内部には、スロベニア解放運動の最高指導部、医療・技術・宣伝機関、通信・補給・防衛部隊、2大隊がいた。 イタリア軍が巧妙に部隊移動を隠していたため、パルチザン総司令部はこれほど大規模な包囲が行われるとは予測できなかった。一方、イタリア側も、この包囲網の中にスロベニア解放運動の最高指導部がいるとは知らなかった。戦闘は8月14日に包囲地域の外縁で始まったが、指導部は脱出を決断し、17日の夜、三つのグループに分かれて突破を試みた。しかし、中央委員会・OF執行委員会・総司令部を含む主力グループは突破に失敗し、やむなく石灰岩地帯の深い窪地に作られた隠れ家に戻り、食糧も水もほとんどない状態で7日間(〜8月23日)潜伏した。 イタリア軍の歩兵隊形はすぐ近くまで迫り、森を徹底的に捜索したが、結局この隠れ家は発見されなかった。一方、パルチザン部隊の大隊と、さらに中央機関の多くのグループは包囲突破に成功した。ただし、しばらくは食糧も水もない険しい地形に身を隠さねばならなかった。イタリア軍がこれほどの大兵力を集中したにもかかわらず、成果は非常に小さかった。この攻勢の開始時点で包囲の外にいたパルチザンたちはすぐに15〜20名規模の小部隊を編成し、各地でイタリア軍を攻撃して包囲突破を助けた。また、1大隊はリュブリャナ近郊の敵拠点をいくつか攻撃した。これは、イタリア軍が「パルチザンは壊滅した」と宣伝するのを阻止し、リュブリャナのOF活動家たちが攻勢の悪影響を克服できるよう支援するためだった。
 8月24〜29日には、イタリア軍は作戦の主力をKočevski Rogコチェフスキ・ログから、Velike Lašičeヴェリケ・ ラシュチェ — Žužemberkジュジェンベルク の線に向かって北東方向へ進撃した。
 しかし、この作戦の開始前後に、スロヴェニア占領イタリア軍は、「 いくつかの部隊をクロアチア沿岸部での大規模攻勢に参加させよ。」 という命令を受けた。そこにはクロアチアの広大なパルチザンの自由地域が形成されていたためである。ここでパルチザンが海岸に出れば、連合軍との連絡が可能になるとして、スロヴェニアのパルチザン掃討よりもクロアチア沿岸部での防御の方が優先度が高かったのである。
 パルチザン側では、9月中旬に、かなり解放地域の進んでいたクロアチアとの共同作戦司令部が設けられ、これ以降、スロベニアとクロアチアのパルチザン部隊は連携して南東部の両国国境周辺で戦えることになった。
 

   

(左)8月14日からのイタリア軍の掃討作戦 (右)8月24日からのもの (『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.142の地図を基に、特に右はパルチザンの動向を入れて作成。)

  この転属によって、イタリア軍の攻勢は弱まり始めた。8月末から9月5日はさらに北へ進み、ドイツ軍が守っていた独伊の分界線 まで行動を続けようとしたが、部隊は予定された地点に時間どおり到達できず、兵士の疲労も目立った。 パルチザン側は巧みに撤退して包囲を避けたため、イタリア軍はほとんど成果を上げられなかった。
 途中から分かれた部隊は、9月初めには Trebelnoトレベルノに約810名が集まった。ここで9月4日、旅団 があいついで創設された。こうして誕生した総旅団(約1,400名)は、抵抗運動が本格的な軍隊へ発展する重要な転換点となった。ただ、かつてのコチェフスキ・ログを中心とした解放地域は崩壊し、そこには4部隊だけが残った。

8月末からの掃討作戦の方向とパルチザン側の動き(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.142の地図を参考にして作成)


 イタリア占領軍の大反攻最後の「大包囲作戦」の大失態。リュブリャナ近郊に「解放区」・司令部形成
 1942年10月29日から、イタリア軍はスロヴェニア---クロアチア国境をなす、ノヴォ・メスト南東のゴルヤンツィGorjanci(北)〜ジュンベラク Žumberak(南)の山地の大包囲作戦を行った。これには、「クロアチア共和国」の正規軍やクロアチア駐留ドイツ軍も参加した。この山地にいたのは、少数だったが精鋭のクロアチアパルチザン2大隊とスロベニアパルチザン1中隊だけで、イタリアは情報不足により、先述したトレベルノにいたパルチザン主力を全く包囲していなかった。そしてこの包囲した少数パルチザンにも突破され、クロアチア側に行かせ、スロヴェニアとクロアチアのパルチザン同士の連絡網を断ち切れなかった。そしてこれがイタリア占領軍による大規模掃討作戦の最後となった。イタリア軍の情報収集力の弱さから、パルチザン主力でない部隊を最終包囲した挙句、その小部隊の殲滅にも失敗したのであった。
 
1942年10月~11月のパルチザン掃討作戦(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.147の地図を基に作成。)
 
 1942年7月中旬から約4か月にわたるパルチザン殲滅大作戦だったが、パルチザン側の損害は、戦死・捕虜・投降が 約1,000名(20%)、さらに 約900名(18%) が家に戻って離脱 合計 1,900名(38%) が戦列を離れたと推定される。しかし、作戦終了時点でも 約3,100名のスロベニア・パルチザンが活動を継続していた。イタリア軍は作戦中、パルチザンと疑って 約2,100名の非武装農民を処刑し、多くの住民を強制収容所へ送った。村が丸ごと焼かれ、住民が追放された例も多かった。結果として、スロヴェニア南東部に形成されていたパルチザンの解放区は破壊したものの、パルチザンの殲滅という目標達成どころか、主力を取り逃がして温存させ、クロアチアパルチザンとの連絡も切ることができず、結果として大失敗と言うべきものだった。
 コチェフスキ・ログから脱出したスロベニア中央指導部は、Podlipogravポドリポグラフに行き、その後大胆にもリュブリャナの西へ約7km、Sujicaスイツァという谷の北側に広がる山中に移動し1942〜43年の冬を潜伏して過ごした。ここは、リュブリャナにかなり近い所だが、小規模ながらも解放された地域で住民も協力した。そこは委員会、パルチザン、スロヴェニア共産党の最高司令部はもちろん、病院、機械や靴の修理工房、衣類生産工場、食糧貯蔵庫なども構成するかなり充実した「解放区」となった。元々住民の支持がこの地域では強かった。
 1942年11月26〜27日、ボスニア北西部の解放されたビハチでユーゴスラビア反ファシスト人民解放評議会(AVNOJ)が初めて開催された。これは、新しいユーゴスラビア国家の最高政治機関となる存在だった。イタリア軍の大規模攻勢への対処のため、スロベニア解放戦線(OF)の代表はこの第1回会議に出席できなかったが、OF執行委員会は特別声明でAVNOJ の方針に全面的に賛同することを表明した。それは、スロベニアが他の諸民族とともに新しいユーゴスラビアを築く決意を固めたことを意味していた。

 

1942年10月から1943年の冬にかけてのスロベニア解放運動の主要組織の解放区と現在の地図(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』のp157の図を基に作成)

[1942年のまとめ]
 パルチザンの地道な活動の結果、イタリア占領下の南東部で、パルチザンの軍事的支配地域(解放区)が形成され、その政権も成立した。これに危機感を持ったイタリア軍は、数か月にわたる大規模な掃討作戦を行った。いったん解放区は壊されたが、パルチザンの主力は無事に切り抜け、別の場所に解放区を移した。
 
出典
Mestna občina Ljubljana  Zgodovina Ljubljane Nemirno 20. stoletje リュブリャナ市の公式サイトの「リュブリャナの歴史 激動の20世紀」より
  https://www.ljubljana.si/sl/o-ljubljani/zgodovina-ljubljane/nemirno-20-stoletje/
②「市内と市外の」からの部分は、サイト Ljubljana Encircled by Barbed Wire (1942–1945) 
  https://mgml.si/en/city-museum/exhibitions/30/ljubljana-encircled-by-barbed-wire-19421945/  の記述を基にしている。
➂サイト スロベニア語版Wikipedia「Gramozna jama, Ljubljana」記事(2026年4月12日閲覧)に掲載された記録に基づいています。 同一覧は、イタリア占領軍が当時新聞・ビラ・軍命令などで公式に発表した処刑情報(氏名・日付)を整理したものであり、Wikipedia自体は一次資料ではありませんが、記載された氏名・日付は、当時の制度的発表に基づいており、記録の信頼性が高いと判断されます。ただし、ここに載せられている名前の判明している犠牲者を合計すると176名であり、185名ではなく、人数差は、名前が不詳の者も数えた数だと推測されます。
④この記述は、戦争記録サイトTracesOfWar.com(https://www.tracesofwar.com/sights/78907/Gramozna-Jama-Gravel-Pit.htm )に掲載された記録に基づいています。 同記事は、イタリア占領軍が第二次世界大戦中にスロベニア・リュブリャナで実施した処刑について、当時の軍命令・新聞・公式発表に準拠した一次資料の要約として記録されたものです。 原文:"they are most certainly guilty of communist activities, since no perpetrators of resistance actions were discovered in the prescribed period of 48 hours"・・・


 


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