祖国の分割。巨大な枢軸国軍への小さな抵抗開始
---ユーゴスラビア占領に対し、1941年、統一戦線による文民統制パルチザン闘争開始
バルカン諸国の日独伊三国同盟への加盟の進展とユーゴスラビアの反抗
1940年12月18日、ドイツのヒトラーはFührerweisung Nr. 21 (日本語訳 総統指令第21号)で、ソ連に侵攻する計画を策定し、さらにその攻撃準備を1941年5月までに終える事を命じていた①。この12月の時点では、1939年9月ドイツのポーランド侵攻で始まった第二次大戦が展開していたが、イギリスはドイツ空軍の攻撃をしのいだものの、フランスはすでに降伏しており、ヨーロッパ各地のドイツやイタリアによる併合、傀儡政権樹立、同盟拡大などその勢力が広がっていた。ヒトラーはソ連と不可侵条約を結んでいたものの、ソ連を攻撃する計画とその遂行準備に秘密裏に動いたのだった。
この情勢の下で、バルカン半島は、ドイツやイタリア(枢軸国)にとって、ソ連侵攻という大作戦のために、ルーマニアの油田確保、ユーゴスラビア王国セルビアのヴォル銅山確保、ドナウ川の安全航行、抵抗していたギリシャへの攻撃拠点として、大きな意味をもつ場所だった②。すなわち、資源とソ連攻撃の後方の安全が求められたのだった。1939年にアルバニアがイタリアの侵攻により併合され、1940年11月20日にハンガリーがトランシルヴァニアやユーゴスラビアのプレクムリュ地方など第一次大戦で失った領土奪回・復讐のため日独伊三国同盟に加盟、11月23日にルーマニアがドイツ軍進駐の下での同盟参加決定、そして1941年3月1日にブルガリアが、第一次大戦で失った領土をドイツがルーマニアから返還させてくれたことで同盟に加盟し、バルカン半島での枢軸国の勢力が圧倒的となった。また、ドイツが当時のユーゴスラビア王国の最大の貿易相手国だったこともあり➂�、王国の実権を握っていた摂政パヴレは1941年3月25日に同盟に加盟した。
このユーゴスラビア摂政、政府の決定に対し、ドイツによるユーゴスラビア支配への懸念を持ったセルビアの国家主義的将校たち(空軍司令官Dušan Simović ドゥシャン・シモヴィッチを含む高級将校数十名)は、3月27日に、数百名規模のベオグラード駐屯部隊の一部を動員して、数時間で王宮、政府庁舎、通信施設などを無血で占拠し、摂政パヴレや首相ドラギシャ・ツヴェトコヴィッチに辞任を受け入れさせた。そしてすぐさま王宮で当時17歳の国王ペータル2世を親政者として即位させる儀式を行った。首相にはドゥシャン・シモヴィッチが就き、三国同盟加盟の見直しを決定した。クーデターがなされたのだった④。

(左)ドゥシャン・シモヴィッチ
『Dusan Simovic』© Vojni arhiv / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(作者不明・改変可・同ライセンス再公開要)
(右)1941年のペータル2世
© IWM CM 5648 / RAF Daventry / Public Domain(Wikimedia Commonsより)
枢軸軍のユーゴスラビア電撃侵攻。
このクーデターに対し、ヒトラーは裏切りと見なして激怒し、同日、外交的報復ではなく、総統指令第25号(Führerweisung Nr. 25)を発令してユーゴスラビアに対する全面軍事侵攻を命令した。ソ連侵攻を遅らせることになるのにもかかわらずの決定だった。4月6日、ドイツ空軍300機によるベオグラード爆撃などで戦闘が開始され、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアの軍隊がユーゴスラビアへ侵攻、交戦し、11日後の4月17日にユーゴスラビアは降伏した。ペータル2世は4月14日に政府高官とともにユーゴスラビアを脱出し、イギリスへ亡命した。

『ドイツ軍によるユーゴスラビア侵攻作戦図(1941年)』 © U.S. Army / Public Domain(1953年発行) / 教育目的使用
枢軸軍の分割占領。民族抹殺政策。
ユーゴスラビアは、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアの分割占領となり、またセルビアの中央政府と対立していたクロアチアは、枢軸国の思惑から、「クロアチア独立国」という傀儡国家として「独立」を認められた。「クロアチア独立国」はドイツとの協定違反の形で国境沿いの5ゕ村約20km2を占領した。それぞれの占領地は「本国に併合する形をとった。⑤」

(左)『イタリア黒シャツ隊、ユーゴスラビアへ進入(1941年頃)』 出典不明 / 著作権状態不明 / 教育目的での暫定使用(照合中) (右)『ヒトラー、占領下マリボルの橋を渡る(1941年)』 © Bundesarchiv / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0 DE(縮小・教育目的使用)

『枢軸国によるユーゴスラビア占領地図(1941–1943年)』 © Hellerick / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(教育目的使用)
『スロベニアおよび周辺地域の占領区分(1941–1945年)』 © Manca Volk Bahun, Rok Ciglič, Matija Zorn / ARRS J6-8248 / 公開許可済(VRT #2023061010004342) / 教育目的使用
図中の黒い矢印が指すオレンジのところが「クロアチア独立国」による占領地。それらの占領された村の名はBregansko selo (現Slovenska vas)、 Nova vas pri Bregani (現Nova vas pri Mokricah)、Jesenice na Dolenjskem、 Obrežje、 Čedemである⑥。
スロヴェニアのドイツ占領下では、「非協力的なスロヴェニア人に対する弾圧が行われ、多くの人々が追放されたり強制収容所に送られたりした。また、公的な場でのスロヴェニア語使用が禁止されるなど、・・・ドイツ化政策が開始された⑦。」 「スロベニア語の標識は全て撤去され、地名や人名はドイツ語化され、・・・スロベニア語による新聞・雑誌・書籍の出版は禁止され、約250万冊の書籍が破壊または焼却された。オーストリアから招かれた約1,500人のドイツ人教師により、義務教育としてのドイツ語授業が、学校児童や保育園児に加え、一般住民の一部にも拡大された。⑧」スロヴェニア意識の高い知識人、ドイツ化政策に適しないと判断された者、国境沿いの居住者など、翌年7月末までにドイツの占領下になった地域から人口の約10%にあたる約8万人が追放された。そして追放されたスロベニア人農民の土地には、約15,000人のドイツ人が定住した⑨。また、7月にツェリェで、反体制運動に参加した数名が銃殺されたとものという写真も残っている。1941年10月、ドイツは広い地域から住民全体を追放し、代わりにドイツ人を入植させる大規模な民族浄化政策を開始した。この地域からは約37,000人のスロヴェニア人が強制移送され、代わって約12,000人のドイツ系住民が入植した。これはスロヴェニア民族の地理的連続性を断ち切ることを目的とした政策であった。
他方、イタリアは、「併合に際しては、特に『スロベニア住民の生産的集団の代表者』14名からなる評議会(コンスルタ)、兵役免除、学校及び行政機関における二言語使用を約束した。・・・行政に・・・最も重要なポストにはイタリア人が任命された。コンスルタ(他のイタリア州にも存在した)には一切の権限がなかった。・・・会議はわずか5回しか開かれなかった。・・・イタリア占領軍は・・・約36,000名の将兵を擁し、・・・当初、約90の駐屯地(大半は大隊規模)に配置され、主要な集落や交通結節点を警備していた。・・・イタリア化は長期的な計画として進められた。・・・学校では、 イタリア語が主要科目として導入され、 ローマ式敬礼と青年組織が導入された。➉」「リュブリャナ県におけるイタリア占領当局は ・・・1941年及び翌年初頭には、 国家解放運動の構成員ではないか、と多かれ少なかれ根拠をもって 疑われた人々を投獄しており、 被拘束者は軍事法廷または拘禁委員会に送致された。 ⑪」「イタリアは、1941年11月7日、リュブリャナに・・・軍事裁判所を設置した。その裁判所が1943年9月8日まで存在した期間に・・・ 8,737 件の裁判が 13,186 名のスロヴェニア愛国者に対して行われた。83 件の死刑判決、412 件の終身刑、そして 3,082 件の最長 30 年の懲役刑が言い渡された。⑫」 「1942年2月、当初の逮捕制度は 『罪』の有無にかかわらず人々を大量に投獄し、 強制収容所へ集団移送する制度へと置き換えられた。⑬「収容所はイタリアの「 Rab, Gonars, Padua, Treviso, Renicci, Visco ⑭」にあった。「ハンガリー占領軍はスロベニア語の標識や地名を除去し、書籍や図書館を破壊した。学校では約160人のハンガリー人教師の協力を得て、ハンガリー語のみの授業が導入された。1918年以降にプレクムリェ地方に移住したスロベニア人知識層や住民は国内中央部へ強制移送された。1942年には軍がプレクムリェ地方の青年を徴兵し前線へ送り始めた。占領者がスロベニア民族を死に追いやろうとしていることは明白であった。⑮」

(左)『1941年7月、スロベニア占領初期の処刑記録(撮影地照合中)』 撮影者不明 / Public Domain(照合中) / 教育目的使用 (右)『イタリア国内Gonar収容所(1942年頃)』 出典:www.campifascisti.it / 撮影者不明 / Public Domain(照合済)
統一戦線としての反帝国主義戦線の結成
ユーゴスラビア政府の降伏から10日後の4月27日、リュブリャナ市内の「作家※Josip Vidmarヨシップ・ヴィドマル(※リュブリャナ生まれの有名だった文芸評論家・随筆家 私注)の家で、スロベニア共産党、キリスト教社会主義者、★ソコル運動(★ソコル=「鷹」の意味。民族的体育・文化運動で 身体訓練・民主主義教育・民族意識の育成を目的としていた 私注)、文化活動家の代表者たちが反帝国主義戦線(Protiimperialistična fronta)を設立した。共産党はずっと非合法だったが、1925年に結成されたユーゴスラビア統一労働組合連盟(URSSJ)で活動をし続け、1932年から1934年にかけて、都市、 そして一部は内陸部でも組織を再建し、反ファシズムの闘争でこのような大きな影響力を持つようになっていた⑯。」また、「反帝国主義戦線の創設会合とその成立は、数日後、1941年5月初めにザグレブでヨシップ・ブロズ=チトーの指導の下に開かれたユーゴスラビア共産党の・・・決定に沿ったものであった。・・・スロベニア民族の闘争をユーゴスラビアの他のすべての民族の民族的・社会的解放の闘争と結びつける絆でなければならない。・・・これらの任務は、スロベニア共産主義者のその後の活動における長期的な戦略的方向性であった。⑰」というわけで、当初からスロヴェニアの反ファシズム運動は、ユーゴスラヴィア全体の解放運動と一体のものとして位置づけられていた。この戦線は帝国主義者を標的としていた。5月、非合法新聞『スロヴェンスキ・ポロチェヴァレツ(スロベニア・レポーター)』の戦時初号において、同組織のメンバーは、「我々は、民族の歴史においてかつてないほどの大惨事を経験した。 ユーゴスラビアの諸民族は、ドイツ・イタリア・ハンガリー・ブルガリアの帝国主義者によって支配された。 スロヴェニア民族とその土地は、ドイツ・イタリア・ハンガリーの侵略者によって分断され、分け合われた。 誰がこの責任を負うのか?」とドイツらを帝国主義者として批判した。1941年6月8日に発行された同紙第2号は、見出し部分で、新聞を購入することが彼らの基金となること、すなわちカンパを呼びかけた⑱。 ただし、会議で何が話し合われたかは、会議の文書が残っていないためわかっていない。彼らは主に新聞発行で、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリアなどの帝国主義国を批判する活動を行った。また、ソ連の美化もあった⑲。後に彼らは印刷所や工房を持つ中央技術部や地下ラジオ局「Kričač(クリチャッチ)」ももった。
2025年時点のスロヴェニアでは、この4月27日は「Dan upora proti okupatorju(占領への蜂起の日)」として祝日、休業日となっている。
『Josip Vidmar(1946年頃)』 出典:Wikimedia Commons / Public Domain https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Josip_Vidmar_ca.1946.jpg と結成の家の場所

反帝国主義戦線結成の家。記念碑には「1941年4月27日、この家においてスロヴェニア民族解放戦線が設立された」と刻まれている。私がここを訪れたのは2025年のちょうど4月27日の夕方で、花が供えられたばかりだった。

反帝国主義戦線の機関紙『Slovenski poročevalec(スロヴェニア報道者)』第1号(左)、第2号(右)。私が赤線で囲ったところに「Cena 1 din za OSVOBODILNI FOND(解放基金のための価格:1ディナール)」とある。
本画像は、1941年発行の『Slovenski poročevalec』第1号(1941年5月)および第2号(1941年6月8日)の紙面から、見出し部分を抜粋・比較したものです。 著作権保護期間はすでに満了しており、スロヴェニア国立電子図書館(dLib.si)にて公的に公開されている資料を教育目的で使用しています。 視認性向上のため、紙面の黄ばみを除去し白背景に補正しています。原資料出典:dLib.si – Slovenski poročevalec, št. 1–2, maj–junij 1941(https://www.dlib.si)
パルチザンの結成
1941年6月22日、ドイツはソ連侵攻を開始した。ソ連は「祖国防衛戦争」として兵力を総動員して戦い始めた。スターリンはユーゴスラビアの共産主義者たちに武装闘争を呼びかけた。これにより、今まで独ソ不可侵条約のため、民族解放闘争の位置づけが今一つ明確にならなかったスロヴェニアの共産主義者たちは、ソ連とともに「反ファシズム戦線」の一角として武装闘争に踏み切る政治的根拠を得た。彼らが主導権を取っての反ファッショパルチザン活動が開始される(当時の各国の共産主義者たちにソ連が与えていた影響力は絶大であった)。すなわち、1941年6月22日即日にスロベニア共産党中央委員会によってスロベニア・パルチザン最高司令部が設立された⑳。このスロヴェニア共産党の指導部には、Edvard Kardelj エドヴァルド・カルデリやBoris Kidrič ボリス・キドリッチら、戦後にユーゴスラビア社会主義共和国連邦のスロヴェニア共和国でも指導者となる人々が名を連ねていた。また、最高司令部には「キリスト教社会主義者のマリヤン・ブレチェリ博士とソコル創設グループのドゥシャン・ポドゴルニクもいた21♪」。1941年6月下旬〜7月初旬に(正確な日にちは分かっていない)、反帝国主義戦線は、名称を「解放戦線(Osvobodilna Fronta 略称OF)」に変更し、武装抵抗と民族解放の理念をより積極的に前面に出した。スペイン内戦に参加していた者たちを含む武装組織パルチザンが結成された。スロヴェニアのパルチザンは、このように当初から非共産党メンバーや文化人も含む解放戦線が戦略を指導する「文民統制」のものであった。また、チトーらが他のユーゴスラビア地域で始めたパルチザンと提携する意図のスロヴェニア共産党だったが、彼らが主導したスロヴェニアパルチザンは、チトーらのものとは当初は別組織であった。スロヴェニア語での指揮命令がなされていた。使う武器については「ユーゴスラビア軍が組織的に武器を持って撤退した国境地域を除き、すべての党組織は蜂起開始のために必要な武装を集めた22」
パルチザン活動開始
当初のパルチザンはゲリラ部隊であった。実際の武装蜂起は、1941年7月22日に行われた。標的は旧ユーゴスラビア警察官で、ドイツ軍と協力し、現地の共産党支持者を裏切ったと主張されていた人物であった。 この男は、リュブリャナ近郊のTacenターツェンのPšatnikプシャトニク森林でパルチザン部隊による待ち伏せ攻撃を受けた。しかし、彼に致命傷を与えることは無く、逆にドイツ軍により約30人が逮捕されし、うち2人が処刑された23。現在、この最初の攻撃場所には記念碑が建てられている。
解放戦線指導部は、「より多くの小規模な反乱拠点が準備されるべきであり、それらがスロベニア全土に分散配置されることで、解放戦争が徐々に最大規模へと発展していくと考えた24。」
最初の攻撃の場所の記念碑
記念碑には、パルチザンのシンボルの赤い星とその各尖頭の間に炎のようなものが吹き出すデザインがなされ、周りに「ここでのパルチザンの発砲は 轟き渡り、悲しみの静寂を引き裂いた
蜂起の炎は立ち上がり、スロベニアの祖国全体に燃え広がった」と刻まれ、側面には蜂起の日付も。
1941年末までのパルチザンと「解放区」の実態
スロベニア沿岸地方、コロシュカ、プレクムリェを除き、1941年7〜8月の最初のパルチザンは、19の中隊が中心で、14がドイツ占領地域、5つがイタリア占領地域で結成された。各中隊の人数は20数名から60数名までだった。また、多くの戦闘・破壊・サボタージュの小隊も作られた。初期のパルチザン部隊の戦術は、パトロール隊や孤立した兵士、車両への奇襲、 道路や鉄道施設、送電線、電信・電話線の破壊、 さらには裏切り者や占領者の協力者への攻撃、落書き、住民への宣伝などを含んでいた。 しかし、より大規模な作戦は、 軍事的な組織力や訓練不足、経験の欠如などのために、ほとんど成功しなかった。中隊は多くの場合、村落の外で野営し、 現地の活動家とは、あらかじめ決められた連絡地点で接触していた。 武器も統一されておらず、さまざまな種類が混在していた。 最も多かったのは旧ユーゴスラビア王国軍の小銃で、 中隊には数丁の軽機関銃や機関銃がある程度だった。 迫撃砲は一つもなく、爆破用の爆薬も不足していた。
初期のパルチザンたちは、ほとんどが民間の服装や、さまざまな民間の制服を着ており、 ユーゴスラビア軍の制服の一部を身につけている者がわずかにいる程度だった。 しかし、すべてのパルチザンは帽子や帽子代わりのものに 赤い五角星とスロベニアの三色旗をつけていた。 これはパルチザン法の規定に従い、 スロベニアの国民解放パルチザン部隊に属していることを示す標章であった25。下に、出典25のp63の地図を基に、私が1941年のスロヴェニアのパルチザンの分布状況を示すため作った地図を下に掲げる。同書によれば、ハンガリー軍占領地域ではユーゴスラビア国王軍が組織的に撤退したため、置き去りにした武器が極めて少なく、パルチザン結成が遅れていたとのことである。

小さな●はパルチザン小隊、大きな●は主なパルチザン中隊
1941年9月16日、リュブリャナで開催された解放戦線最高会議は、重要な決定を下した。スロベニアのパルチザン部隊をユーゴスラビア全体の民族解放パルチザン部隊(NOPOJ)に正式に編入し、独自の指揮系統を持ちながらも、全体の最高司令部の指揮下に置くこととしたのである26。 しかし、スロヴェニアのパルチザン闘争は、まだ、チトーらのパルチザンが「解放区」ともよばれるものを広げていったのとは対照的だった。チトーらが「解放区」の一つとして、1941年9月下旬から12月1日まで、セルビア西部のUžiceウジツェに作ったものは、パルチザンが「学校を開設し、新聞ボルバ(「闘争」の意)を発行した。郵便制度の運営や約145kmの鉄道維持、ウジツェの銀行地下金庫を利用した弾薬工場の操業さえ実現した。27」¶ このような解放区を広げる方針は、1941年9月のセルビア西部のストリツェで開かれ、スロヴェニア代表も参加した会議で決まった。これらの解放区は、単なる軍事的後方基地ではなく、人民権力を発展させる政治的空間として構想されており、今後の作戦計画も、こうした自由地域を拡大することを中心目標とするよう定められた。つまり、軍事行動と政治革命を一体化させるというチトーの戦略が、ここで明確に制度化されたのである28
下の「解放区」の分布図からわかることは。1941年のスロヴェニアの「解放区」は、散発的、分散的なパルチザンの拠点を示している程度のものだったということである。

ユーゴスラビアにおける蜂起 – 1941年9月」地図。第二次世界大戦中のパルチザン活動と占領状況を示す歴史資料。
赤い点で示されているoslobojena teritorijaとは「解放された領域」で、パルチザンが占領軍から奪還し、実効支配していた地域のこと。Užiceの地名もある。
地図出典:Dada, “Ustanak u Jugoslaviji 1941”, Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ustanak_u_Jugoslaviji_1941.png 本地図は教育目的で使用されており、著作権者の意図に従い、同ライセンスのもとで掲載している。
1941年のスロヴェニアのパルチザン活動は、10月にシュタイエルスカで60人ほどによる大隊が結成され初めてショシュタンという町を一次的に占領する戦果をあげたり、イタリア占領下で5中隊に分けられる150名の大隊が結成され、占領軍の兵舎を攻撃するなど発展をみせた。しかし、占領者側の「山狩り」など執拗な反撃、パルチザン内部や住民の裏切り、その背景としての関わったとされる村の焼き討ちや住民殺害、連絡網不徹底などで打撃を受けた。
1941年末のスロヴェニアにおけるパルチザン運動は、全体としては停滞と困難の時期にあった。原因として、指導部は複数の要因を挙げている。第一に、、住民の組織化が不十分だったこと。第二に、1941年の早すぎる冬と深い積雪が部隊の移動と行動を著しく妨げたこと。第三に、部隊がまだ軍事的に未熟で、連携も弱く、大規模作戦を遂行する能力が不足していたこと。そして第四に、最も重要な点として、パルチザン部隊が依然として防御的戦術にとどまり、同じキャンプに長く滞在し、攻撃や機動が少なかったため、占領軍に位置を把握されやすかったことが挙げられる。こうした状況を受け、指導部は政治的・組織的強化のため、特別な教本「パルチザン指揮官のための短期講座」を 1941/42 年の冬に部隊へ届けた。こうして、翌年以降の本格的な抵抗運動に備える体制づくりを進めた29。
1941年10月4日、スロベニア・パルチザンによるリュブリャナ–トリエステ間鉄道線での破壊工作。兵士たちは対応しているイタリア兵だと思われる。出典:『Diverzija na pruzi Ljubljana–Trst 1941』 所蔵:ユーゴスラビア歴史博物館(Inv.br. 16596) ライセンス:Public Domain(著作権消滅) 教育目的で使用しています。
[1941年のまとめ]ユーゴスラビア王国がドイツ、イタリア、ハンガリー等の枢軸国・ファシズム諸国に降伏し、スロヴェニアは3カ国に分割占領され、民族抑圧が始まった。しかし、スロヴェニアでは、共産党、キリスト教社会主義者、知識人らは「解放戦線」を結成し、パルチザンという武装抵抗を始めた。当初は散発的ゲリラ活動で、武器も貧弱だったが、特にイタリア軍に少なくない打撃を与えて行った。しかし、しかし、武器不足、組織の未成熟、経験不足など、様々な弱点の克服が課題であった。
出典
①ウェブサイトでは、Wikisource – Fall Barbarossaに原文あり
②Führerweisung Nr. 25(総統指令第25号)。同サイト。ここではバルカン半島の重要性をヒトラーがリアルに述べている。
➂�Tomasevich, Jozo (2001). War and Revolution in Yugoslavia, 1941–1945: Occupation and Collaboration. Stanford, California: Stanford University Press
④David Stafford, SOE and British Involvement in the Belgrade Coup, JSTORの記述
⑤山崎信一「スロヴェニアと第二次世界大戦」(『スロヴェニアを知るための60章』)より
⑥サイト「Occupation of Slovenia in 1941」 https://okupacijskemeje.si/exh01-ch02.html より
⑦Renton: 1941: Slovenski mediji med prvim letom okupacije:https://www.renton.si/slovenski-mediji-1941/
⑧『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) Zdravko Klanjšček(ズドラヴコ・クラニシェク)著 1984年 Vojnoistorijski institut(軍事歴史研究所、ベオグラード)p36
⑨同p.35
➉同pp..36-37
⑪Božidar Jezernik 著『Struggle for Survival: Italian Concentration Camps for Slovenes during the Second World War』(PDF版)p19
⑫『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) p.82(原資料ではp32となっているが82の誤りだと思われる 私注)
⑬Božidar Jezernik p.19
⑭同書p7
⑮Zdravko Klanjšček p..38
⑯同書p.p..11-14
⑰同書p.42
⑱https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Slovenski_porocevalec_1941-06-08_URN-NBN-SI-DOC-V7BF33W2.jpg
⑲Griesser - Pečar, Tamara (2004). Razdvojeni narod. Ljubljana: Mladinska knjiga. p 121.
⑳Mlakar, Polona. "Archivalia of the Month (February 2012): Partisan Act". Archives of the Republic of Slovenia, Ministry of Culture, Republic of Slovenia. Retrieved 2 March 2012
21.Zdravko Klanjšček p48
22Zdravko Klanjšček p.45
23Traven, Rezka (June 1976). "Tistega dne, 22. julija" [On That Day, 22 July]. Javna tribuna [Public Tribune] (in Slovenian). Vol. 16, no. 130. Municipality of Ljubljana Šiška
24同p.45
25『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) p.70
26同p.p.66-67
27Misha Glenny『The Balkans: Nationalism, War and the Great Powers, 1804–1999』p.487
28『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) p.74
29同p78、p.p.80-88 の要約