イタリアの降伏と解放勢力の飛躍

---1943年の攻防。共産党独裁化。パルチザンの「軍団」化。ドイツが主敵に。


イタリア軍の弱体化進む
  1943年3月中旬、パルチザン旅団群は、 リュブリャナ南東部の奪回をめざし、Hočevjeホチェヴィエ、Korinjコリニ、Ambrusアンブラス の白衛軍・イタリア軍拠点を攻撃した。3月16〜19日にかけて、両軍が山地の谷や峠を移動しながら位置を変え続ける激しい機動戦が展開された。パルチザン旅団は尾根伝いに先回りしつつ、谷の異なる区間で4度にわたり包囲し、イタリア軍に114名の戦死・163名の負傷を与えた。

1943年3月のパルチザンの攻撃  (Hočevjeはリュブリャナから直線距離約17km)

 
  さらに、3月26日、パルチザンは偶然の遭遇による戦闘であったが、「Jelenov Žlebイェノヴ・ジュレブ 」の戦いにより、イタリア軍に最大の打撃を与えるとともに多くの戦利品を獲得した。

現地の攻撃を受けた場所の戦闘地図と説明。赤旗はパルチザンの現場司令官。赤線がパルチザンのルート。黄色が攻撃方向。一番上(北)の攻撃のすぐ後に●1086m地点が記されている。青が山を下って敗走するイタリア軍。


 

交戦現場の記念碑。リブニツァから車で30分の曲がりくねった山道を登ったところにある。この碑はパルチザンに今だに敵意を持つ人によって数回破壊されてきた。右はイタリア軍が落ちて行ったと思われる山腹。
碑文の左側の意訳「 追われ、苦しみ、傷つきながらも、彼らの歩みは過去の真実を照らし出した。その真実は、時を越えて私たちに語りかけ、自由へ向かう力となった。1943年3月26日 

碑文の右側「 カンカル旅団とグブチェ旅団は、トムシチェヴァ旅団とシェルツェル旅団の支援を受け、1943年3月26日、イタリア軍マチェラータ師団の一個大隊をイェレノヴ・ジュレブで完全に撃破した。

 

現在も山中の一本道のみ(以上2025年4月28日撮影)。

 この戦いの事の起こりは、パルチザンの二つの旅団が Ribnica リブニツァの町のイタリア軍を攻撃するために接近したものの、町には増援部隊が到着していたため攻撃を断念し、西方の山中へ撤退したことに始まる。
 彼らは 3月26日早朝、Mala bela stenaマラ・ベラ・ステナの下(戦闘地図の黄色い攻撃階のあたり)に到着し、休息のための陣地を作り始めた。その時、イタリア軍の追撃掃討部隊(大隊約500名)が、山道を登って来たが、予想外に山に戻って来ていたパルチザン部隊に気付いたため突然発砲し、全く偶然の遭遇戦となった。パルチザン側もイタリア軍も、ここに相手の軍が近づいていたことを知らなかったのである。パルチザンは軽機関銃の軽武装であったが、地形に精通した現場司令官が兵士たちとともに森林と岩場の急斜面を駆け上がり、戦闘開始地点の真上にある最高地点1086mの支配高地を確保した。さらに三方から包囲する形を作り、また手榴弾で機関銃部隊に打撃を与えたため、イタリア軍は総崩れとなり、あいついで開いていた側の谷底へ逃げようとして転落した者が続出し大打撃を受けた。イタリア軍の損害は戦死159名、パルチザン側は戦死10名であった。戦利品として81mm迫撃砲2門、機関銃多数、小銃190丁などが奪取された。
 この勝利はイタリア軍に大打撃を与え、以後、スロヴェニア南部の戦いの主導権はパルチザン側に移ることとなった。▼


解放戦線内の共産党独裁化司令部の移転。


 1943年2月に、例のリュブリャナ西部の「解放区」にあったPolhograjski Dolomitポルホグラ・ドロミティ丘陵で、解放戦線(OF)を構成していた、共産党、キリスト教社会主義者、ソコルの三者間で「ドロミティ宣言」(以下「宣言」)が採択された。これは、戦後のスロヴェニアの政治体制をも決定づけた大きな意味を持つものだった。この宣言自身はインターネットでその写真がいくつもアップされている。その内容の要点は以下の通り。
 ○共産党の評価について: 「唯一、1941年の崩壊で汚名を受けなかった政党であり、一貫してスロベニア民族の利益を守ってきた。」「OF を 全民族的組織
  として主導するのは共産党だけである。」
 ○「OF は 統一された全民族的政治組織 であり、その指導は OF 執行委員会(IOOF) が担う。」「共産党は・・・OF の 前衛 である。他の創設グループ
  (ソコル、キリスト教社会主義者)は※独自の政党・政治組織を持たない。」(※この内容の前に「OF は、政治的・宗教的・社会的立場を問わず、 すべての
   愛国的スロヴェニア人が参加できる組織である。」と書いており、それぞれは主義主張を異にしても個人としてはOFに留まることが可能で、また実際
   占領軍との戦争状態にあり、OFから抜けたグループは無かった。--- 私注)
 ○署名者:共産党、ソコル、キリスト教社会主義者からそれぞれ代表の数名
 宣言については、スロベニア現代史研究所の研究者Lojz Tršanロイツ・トルシャンによる次の分析、評価がある。
 宣言は、決定的な転換点であった。表向きには、解放戦線(OF)内部の政治的・組織的統一を強化するための声明とされるが、その実質は、スロベニア共産党(KPS)が戦後の政治権力を掌握するために、OF 内部に存在した多元的勢力を制度的に排除することを目的としたものであった。背景として、キリスト教社会主義者の一部が、1943年1月に「キリスト教社会主義者第6号回章」というものを発表し、その中で、OF は将来「単一の政治組織(政党)」へと発展すべきであり、その中には共産党もソコルも吸収されるべきであると主張したことがあった。また、戦後の国家像をめぐって対立が生じた場合には、キリスト教社会主義者は独自政党を結成する可能性にも言及していた。これは、カトリック大衆の支持と知識人層への強い影響力を背景に、OF 内で独自の政治的立場を強めつつあったキリスト教社会主義者が、共産党にとって重大な脅威であったことによる。しかし、共産党がドロミテ宣言を強行した本当の理由は、こうした表面的な対立ではなく、戦争の終わりが近づいているという情勢認識に基づき、戦後の権力掌握に向けて OF 内のすべての独自組織を消滅させる必要があった点に求められる。すなわち、ユーゴスラビア全体で独裁を進めようとする共産党と、多元的民主主義を志向したキリスト教社会主義者との対立こそが、ドロミテ宣言の根底にあった。この後、ソコルは比較的穏やかに政治的組織を解消し、文化・体育団体としての性格を強める方向へ移行した。一方、キリスト教社会主義者も不満を抱えながら組織としての自立性を徐々に失い、OF の内部に吸収されていった
 しかし、この不満は戦後に再び表面化することになる。このような反ファシズム勢力内の政治的抗争は、ユーゴスラビアでは、当初から諸勢力の統一戦線として発足した解放戦線を維持して来たスロヴェニア独自のものだった。他の地方では共産党だけがパルチザン闘争を行っていたのでこのような問題は起きなかった。
  1943年4月17日からOFの執行部、最高会議、パルチザン司令部、スロヴェニア共産党中央委員会は、安全面から、リュブリャナ近郊の山地から、かつてのコチェーフスキ・ログに移った。ここは「Baza20」(英語でBase20)と言われ、司令部、作業所、印刷所、研究所など26棟のバラックから成り、第二次大戦終了時まで、イタリアやドイツの占領軍にその場所はおろか存在まで知られていなかった。近隣の2箇所の合計18棟の病院の建物とともに、国家により保存されてきた。このような反ファシズムの抵抗運動の「本部はヨーロッパで唯一真正な状態で保存されているもの」という。26棟の建物が見つからなかったというのは奇跡に近いと思う。

 

2025年現在も残るBaza20 (ノヴォ・メスト博物館の許可を得て下記出典の書より転載)  

左のGoogleMapsはBaza20自身を中心にする地図がアップできないので近隣の地名を中心にしている。
私は「スロヴェニアのスケッチ」で書いたように、残念ながらここに行けなかったが、車で近くまで行ってさらに山道を10分以上登ると着けるようである。

 
  1943年4月27日〜5月1日、パルチザン司令部が置かれていたコチェーフスキ・ログでOF活動家大会が開かれ、イタリア占領下の各地域の代表、軍関係者、OF執行委員会など計76名が参加し、ドロミティ宣言を正式に承認した。前年のイタリア軍による大掃討作戦でこの地域から排撃されていたOF組織が、1943年春までにこの地を再び掌握し、大規模な会議を開催できるほどに勢力を回復していたことを示す出来事であった。同時に、ドロミティ宣言の最終的承認は、OFが成立当初の多様な勢力による統一戦線という性格を完全に無くし、共産党の単独指導体制の組織へと変質することを意味していた。他勢力は「個人」としてのみ参加可能で、政策決定はすべて共産党が掌握していった。なお、スロベニアの共産党はユーゴスラビア共産党の一組織であり、この「宣言」についてチトーらユーゴ共産党の中央からの指示があったことは自明である。チトーらは戦後を見据えて、ユーゴスラビア全体を共産党一党支配の国家とする構想で動いていたのであった。
ヨシップ・ブロズ・チトー(1942年のもの パブリックドメイン)
沿海地方とドイツ支配地域でのパルチザン勢力拡大

 1943年5月から6月にかけて、パルチザンはイタリア占領下の地域で、飛び地状ではあるものの自由行動地域を着実に復活・拡大しつつ、鉄道破壊や守備隊との交戦を繰り返した。スロベニア最南部の森林地帯は、この時期には比較的安全な自由地域として機能していた。5月には編成されたばかりのパルチザン2旅団が、沿海地方のイタリア本土にも進出し、トルミンやコバリドのイタリア軍と山地で戦った。
 他方、前年の1942年まで、ドイツ占領区の支配は強力な治安部隊を維持しほぼ鉄壁であり、パルチザンは山岳地帯に散発的に存在するだけであった。しかし、1943年に入ると、パルチザンは岳地帯でスロベニアと連続する、ドイツ支配下のオーストリア最南部(ケルンテン州)まで進出し、ドイツ軍が利用していた蓄電池工場、小規模水力発電所、大規模製材所を破壊した。また、リュブリャナの北東に広がるドイツ占領下の山岳地帯(カムニク地方からサヴィニャ渓谷にかけて)でも、そこのパルチザンは450名とドイツ占領地域では最大級の規模となっていたが、4月以降、鉱山施設や鉄道駅、貨物列車、製材所などに対する破壊工作を相次いで実施し、7月にかけて活動の数を増やしていった。こうしたパルチザンの活動拡大に対し、ドイツ指導部は強い危機感を抱いた。1943年6月19日、ヒトラーは、※ゴレンスカおよびシュタイエルスカ (地域名。下の地図を参照のこと。なお、これからたびたびこれらの歴史的地域名が登場するのでそのつど見られたし  私注) に追加の警察連隊を投入するよう命じ、両地域を、通常の占領統治地域から「反乱鎮圧モードの地域」へと格上げした。

 

右地図は当時のスロヴェニアの歴史的地域名(『スロヴェニアを知るための60章』p18の地図を元に作成)



連合軍の支援開始。パルチザンの師団への発展。
 
 連合国のイギリス軍事使節団の一員であるカナダ人少佐が、6月27日にスロベニア司令部に到着した。パルチザンは、医薬品・武器・爆薬・弾薬の空輸支援を強く要請し、7月3日から空輸が開始された。これにより、クロアチアの国境近くで、クロアチアに空輸・投下された47mm 対戦車砲2門と砲弾100発を受け取った。
 1943年夏、ソ連赤軍はドニエプル川まで前進した。他方で連合軍がシチリアに上陸すると、イタリア兵は大量に投降し、国王はムッソリーニを解任。代わったバドリオ元帥政権はファシスト体制を解体したが、国内では平和と自由を求めるデモやストライキが広がった。シチリアは8月に解放され、連合軍は9月にイタリア本土へ上陸した。ドイツは北イタリアの工業力を維持するため、イタリア半島の防衛を続ける決定を下し、イタリアとの交通路を確保するため、リュブリャナ地方やスロベニア沿岸部へ進出する危険が高まった。また、ナチ体制が急速に崩壊した場合には、スロベニア解放戦線が国内反動勢力や西側勢力と衝突する可能性も想定された。
 こうした情勢に備えるため、スロベニアのパルチザン部隊は、旅団規模では対応できない大規模作戦を遂行できるよう再編が必要となった。そこで、ユーゴスラビア最高司令部は1943年7月にスロベニアでの2個師団(第14師団・第15師団)の編成を承認した。これらの師団は既存の旅団を再配置して構成され、それぞれリュブリャナ—トリエステ線、リュブリャナ—ザグレブ線の重要鉄道破壊に向けて行動するよう指示された。イタリア降伏直前、イタリア占領地域に集中していた2師団に4,000名がいて、師団外のパルチザンも入れて合計すると4,700名、さらにドイツ占領下のパルチザン800も入れて総合計するとパルチザンは5,500名だった。


イタリアの降伏・武器捕獲
 1943年8月末になると、イタリア軍では兵士の離脱が相次ぎ、9月8日、イタリアは連合国に降伏をした。
  パルチザンはイタリア降伏の報を受けると即座に行動を開始した。第15師団は主要都市に部隊を送り、イタリア軍と白衛軍の拠点を包囲して武装解除を命じた。イタリア軍は、最終的には武器庫の武器を渡し、その後、兵士が携行していた武器も引き渡すことになった。武装解除を免れて撤退していたイタリア軍部隊は、途中で複数のパルチザン旅団と交戦したが、多くの地点で撃破され、最終的には武装解除されて武器を押収された。パルチザンは残存拠点を次々と武装解除し、リュブリャナ郊外まで進出した。南部の都市ではイタリア軍が撤退し、行政権を即座に解放戦線が掌握した。
1943年9月10日、南東部都市リブニツァ。イタリア占領軍の武装解除後、パルチザンが押収した武器・弾薬を点検する様子。
『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』の掲載写真。出典・撮影者の記載なし)


 

 

(右)1943年9月、イタリア降伏時の解放地域(赤)                           (左)スロヴェニアの歴史的地域
  (右)地図は『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.208地図を基に筆者が独自に作成。イタリア本土の部分はかなり省略している。
は解放戦線(OF)の地区委員会のあったところ。はドイツ軍の侵攻路。は占領国の境界だったところ





初めてのスロヴェニア国家機関を作るための会議

 1943年には、スロヴェニア国家の代表機関をつくるため、企業や公共機関では住民500人につき1名、パルチザン部隊(NOV)の各大隊では2名の代表を選ぶ方式が定められ、多くの地域で直接・公開選挙が行われた。占領軍の影響が強いリュブリャナ、ゴレンスカ、シュタイエルスカでは間接選挙となり、沿岸部ではドイツ軍の攻勢により一部地域のみで選挙が実施された。最終的に668名が直接選出され、78名が間接選出または指名され、当時の状況下でスロベニア全土を代表する構成が整った。こうして1943年10月1日から4日にかけて、コチェービエで「スロヴェニア民族代表会議」が開かれ、AVNOJ(アヴノイ、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議)議長をはじめ、ユーゴスラビア共産党中央委員会、クロアチア反ファシスト評議会、英国軍事使節など多くの来賓が参加した。この会議の代議員たちなスロヴェニア全土の正当な政治代表であることとされた。会議ではまず、スロベニアの抵抗運動の成果が報告され、全土での軍事行動拡大、人員・物資の総動員、未発達地域への支援、民主的な人民権力の強化が確認された。その後の議決で、スロベニア人民解放委員会(SNOO)120名が選出され、これがスロベニアの最高機関となった。SNOOは同時に解放戦線の最高機関も兼ねることになった。さらに、「政府」に相当する実行部隊である解放戦線執行委員会が選ばれ、加えてAVNOJ(アヴノイ。ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議)へのスロベニア代表団42名が新たに選出された。

 

(右)スロヴェニア民族代表会議(コチェービエ会議)の演壇。中央にスロヴェニアの解放戦線のエンブレム。脇に英米ソとユーゴスラビアの国旗と各指導者の肖像 (パブリックドメイン)


 

(左)コチェービエ会議の行われた現コチェービエ地方博物館 (左)博物館内の会議の行われたホール。当時と同じ「NAROD SI BO PISAL SODBO SAM」(民族は自らその運命を決定する)のスローガンが掲げられている(2025年4月筆者撮影)


 続く11月のボスニア中央部でのAVNOJ第二回会議では、亡命政府を否認し、AVNOJを最高国家機関として承認、暫定政府(NKOJ)を設置し、連邦制ユーゴスラビアの建設を決定した。また、パルチザン軍を国家軍として認め、国王の帰国を禁止した。こうして戦後のユーゴスラビア連邦の枠組みが決まり、スロベニアはその構成共和国として自らを位置づけることを決定した。さらに第一次大戦後、イタリア支配下にあった領土の一部(プリモルスカ地方。すなわちアドリア沿海部、コバリドなどソチャ川沿いの地方など)をスロベニアに編入する内容も決まった。



パルチザン軍団の創設とドイツ軍の大反攻
 
 1943年9月のイタリアの降伏はスロベニア戦線の力関係を一変させた。イタリア軍が放棄した大量の武器と装備がパルチザンの手に渡り、西部から南部にかけての広い地域が急速に解放区となった。兵力は短期間で膨張し、第15師団には砲兵司令部が設置され、奪取した約30台の戦車を用いた装甲中隊も編成されるなど既存の師団は強化された。この軍事的飛躍を受け、第14・第15師団・第18師団(9月にコチェビエ周辺の部隊で結成)の三つの師団を統括するため、チトー最高司令官の承認のもと、1943年10月3日に第7軍団が創設され、ゲリラ的な抵抗組織は軍団規模の準正規軍へと発展した。

 パルチザンの急成長を危険視したドイツ軍は、旧イタリア占領地域の支配を受け継いだ。そしてこの間広がった解放区を一挙に破壊するため、約5万名の兵力と戦車・装甲車・砲兵を投入した大規模掃討作戦「ヴォルケンブルッフ」(「豪雨的急襲」の意味)を開始した。
 最初の攻勢は9月25日に始まり、ドイツ軍はトリエステ背後の山岳・渓谷地帯に展開するパルチザン部隊を包囲しようとした。しかし、複雑な地形を熟知したパルチザンは迅速に撤退し、ドイツ軍は主力の殲滅に失敗した。悪天候と破壊された道路もドイツ軍の機動力を妨げ、包囲線は完成したものの、決定的な戦果は得られなかった。


 

(左)第7軍団の3つの師団の攻勢方向(パブリックドメイン)  (右)はドイツ軍の大雑把な侵攻方向。赤線で囲んだ部分は当時の「解放区」

 10月に入ると、ドイツ軍は攻勢をイストリア北部へ拡大し、トリエステ南方からプーラにかけて新たな攻撃を行った。山岳・森林地帯で激しい掃討戦が行われ、イストリア北部のパルチザン部隊は経験不足もあり大きな損害を受け、山地へ撤退後にほぼ壊滅し、地域は再び占領下に置かれ、抵抗組織はゼロから再建を迫られた
 同じ時期、内陸のノトランスカとドレンスカでは、パルチザンが自由地域を守りながら占領軍の拠点や交通線を攻撃していた。10月21日、ドイツ軍はコチェフスキ・ログとドレンスカ一帯に大兵力を投入し、パルチザン中枢の壊滅を狙った。パルチザン側は事前に指導部と病院を地下壕へ移し、主力部隊も分散していたため、ドイツ軍は中枢の発見に失敗した。倉庫などが破壊されたものの、指導部は包囲を突破し、コチェフスキ・ログの中枢施設(Baza 20)は発見されなかった。

    

ドイツ軍の大反攻作戦(1943年10月)の第一段階(左) と第二段階(右) (『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.233の図を参考に主要地点と動線を簡略化して再構成)


 10月末から11月にかけて、ドイツ軍は攻勢をさらに北西へ拡大した。下左の地図に示される黒い矢印は、この南からリュブリャナ南部・南西部へ向かう攻勢の広がりを表している。途中の要所では、パルチザン側が赤線で示される抵抗線を形成し、各地で衝突が生じた。しかし、大兵力を投入したにもかかわらず、ドイツ軍はパルチザンの主力を壊滅させることはできなかった。
 ドイツ軍の大反攻は、最後にスロベニア西部のアルプス山岳地帯に展開するパルチザン主力を包囲した。険しい山岳地域に1万数千名を投入し、約3600名のパルチザンを240kmに及ぶ巨大な包囲線で囲んだが、パルチザンは昼間は稜線で防戦し、夜間に包囲網の薄い部分を探して移動する戦法を繰り返し、激しい戦闘の末に11月18〜19日の夜、最後のパルチザン部隊が包囲を突破した。ドイツ軍は大兵力を投入したにもかかわらずここでも主力の殲滅に失敗した。

 

(左)ドイツ軍の大反攻作戦(1943年10~11月)の第三段階(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.233、236の図を参考に主要地点と動線を簡略化して再構成)
(右)ドイツ軍の大反攻作戦(1943年11月)の第四段階(『同上書』p.239の図を参考に主要地点と動線を簡略化して再構成)

 こうして1943年秋の大攻勢は、イストリアの抵抗運動を壊滅させたものの、スロベニア全体のパルチザン主力を破壊するという目的は達成できなかった。ドレンスカとノトランスカでは一時的にドイツ軍の占領を許したが、後に再び解放され、パルチザンは組織的抵抗を維持した。
 また、プリモルスカの主要部隊は損害を受けつつも組織的に生き残り、戦闘能力を保持した。スロベニア人民解放軍は、プリモルスカで生き残った第30師団を中心に、周辺の小規模部隊や新たに合流した戦闘員を統合し、1943年12月に第9軍団を創設した。こうして、ドイツ軍の大反攻をしのいだスロヴェニアには、第7、第9の2つの軍団が並立することになった。
 ドイツ軍の大反攻により、多くの解放地域が再占領され、人民委員会の行政機能は停止し、コチェービエもドイツ軍の占領下に置かれたため、民族代表会議の開催地としての象徴的地位は失われた。政治機関は崩壊したかのように見え、パルチザンの政治的成果は一時的に後退した。しかし、パルチザン指導部は山中の地下壕(Baza 20)に戻り、活動を継続し、ここまでに作った政治機関そのものは消滅せずに維持された。大反攻が終息すると、パルチザンは再び解放地域を広げ、人民委員会は各地で復活し、スロベニア人民解放委員会(SNOO)も引き続きスロベニアの政治的代表機関として機能を果たした。


[1943年のまとめ]
 パルチザンの活動と、連合国軍の攻勢により、イタリアが9月に降伏した。パルチザンはイタリア軍から大量の武器を奪い、師団そして軍団へと編成されていった。また、広範な解放区を作り、コチェービエ会議でSNOOというスロヴェニアの新国家の礎となる機関も作られた。しかし、このイタリア占領地域をドイツが肩代わりし、パルチザンへの大掃討作戦を行い、パルチザンと解放区に大きな打撃を与えた。しかし、パルチザンの司令部は危機を切り抜け、次第に勢力を回復していった。
出典
①筆者撮影(2025年4月28日)現場の記念碑、説明板と「Jelenov žleb utrip Ribnica24」(リブニツァ地域ニュースサイト)の2015年3月27日公開のものからまとめた。
Lojz Tršan, “Izvajanje Dolomitske izjave v Ljubljani,”Prispevki za novejšo zgodovino 31, no. 2 (1991): p.p.217–227.
Dolenjski muzej Novo mesto 編集. 『Kočevski rog med drugo svetovno vojno in danes.』p.17 2013. なお、このVaza20についての情報もこの書より。

Daniel Divjak「Jelenov žleb utrip」
   Ribnica24(リブニツァ地域ニュースサイト)

 


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