ドイツ占領下でのパルチザンの前進と後退
---1944年~1945年3月、パルチザンの苦闘続く
ドイツ占領下のシュタイエルスカへの師団規模の行軍と失敗
解放闘争をスロベニア全体で均等に展開する戦略こそが、最終目標を達成する唯一の真の道であった。この目的のため、第7軍団第14師団がシュタイエルスカへ派遣された。同師団の主任務は新規戦闘員(特に労働者)のシュタイエルスカ現地での動員と、通信線破壊であった。この移動はザグレブ周辺のクロアチア領を経由するしか方法がなかった。1944年1月6日、1,112名の戦闘員を擁して第14師団はザグレブ南東のトゥロポリェの森へ向けて進発した。装備は対戦車砲2門、中型81mm迫撃砲9門、軽45mm迫撃砲11門、重機関銃12挺 軽機関銃、180丁のサブマシンガン、900丁のライフル、さらに126頭の 荷役用馬・ラバを保有していた。これはスロベニアおよびユーゴスラビア人民解放軍の真の精鋭部隊であった。しかし、1ヶ月にわたる行軍中、激しい戦闘が絶えなかった。14師団は厳寒と深雪の中で包囲突破を繰り返しながら北方、西方へ進んだが、ドイツ軍の激しい攻撃の前に重火器を放棄せざるを得なくなり、シュタイエルスカのパルチザンとの合流はできなかった。最終的に師団は2月末に元の場所に復帰した。壊滅は免れたが、1,112名いた戦闘員のうち、2月26日までに戦闘可能な状態を維持できたのは440名(39.6%)のみであった。367名の戦闘員が戦死・捕虜・行方不明となった。

(左地図)赤線が14師団の行軍ルート。緑線は1941–45 年のドイツ・ハンガリー占領地域とクロアチア独立国(NDH)との境界線。×は主な交戦地
(『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.253の図を参考に主要地点とルートを簡略化、カラー化して再構成)

(左)ザグレブ西方サヴァ川に向かう第14師団 (右)負傷者を雪の中運ぶ第14師団 (共にパブリックドメイン)
スロヴェニア人の戦後国家の形成の端緒
1944年2月、チュルノメリでスロヴェニア民族解放委員会(SNOO)が会合を開き、これを発展させたスロヴェニア民族解放評議会(SNOS)が成立した。SNOO は立法・行政・司法の権限を一体的に保持し、戦時下の暫定政府として機能していたが、その構成は委員会型で、少人数の代表が話し合いで運営する組織で、国家としての制度(議会・政府・司法など)はまだ整っておらず、暫定的で未発達な段階にとどまっていた。代表性も制度性も限定的であり、国家機関としては萌芽的段階にとどまっていた。これに対し SNOS は、SNOO の政治的正統性を引き継ぎつつ、より広い代表を加えて議会的性格を備えた“準国家議会”として再編された。SNOS は立法・行政・司法の三権を保持する最高機関として、治安・教育・経済・医療などの行政制度を整備し、戦後国家の制度的基盤を形成した。SNOS の成立に伴い、SNOO は SNOS の行政実務を担う“政府の前身”へと役割を移した。こうしてスロヴェニアの戦時国家は、「最高権力の議会(SNOS)+執行機関(SNOO)」という二層構造を備えるに至った。行政部門には治安・教育・経済・医療・情報などが含まれ、国家としての機能が具体的な形を取り始めた。SNOS の行政運営を支える財政基盤としては人民税と物品税が中心であったが、最大の財源は住民がパルチザン側に戦時国債のような形で資金を提供する「融資」であった。
また、これまで抵抗運動の中心組織として活動してきた解放戦線(OF)は、住民の組織化などを担う“政治運動の母体”として位置づけられ、国家としての行政・司法・立法の機能は SNOS が担うという分業体制が確立した。

Črnomelj で開催されたスロベニア民族解放評議会第1回会議 (パブリックドメイン)
ドイツ軍協力部隊設置
1944年春、ドイツ軍は東部戦線(対ソ連戦)やイタリア戦線への対応で兵力不足に陥り、スロヴェニアに大規模な増援を送る余裕がなくなった。そのため部隊はドイツ軍・SS警察・イタリア残存部隊・協力部隊などが混在し、指揮系統も複雑で統一性を欠いていた。1944年夏には600か所以上・10万名規模の拠点網が形成されたものの、多くは小規模で機動力に乏しく、戦線移動で疲弊した部隊も多かった。イタリア占領期のスロヴェニアには、反パルチザンの自警団として「白衛軍(Bela garda)」と呼ばれた組織が存在したが、1943年のイタリア降伏後にはドイツ軍の指揮下で「ドモブランツィ」へと再編され、1944年夏の各地には、ドモブランツィを中心に、協力勢力が総計で約3万名配置された。これらの部隊は鉄道・町・村の拠点防衛や治安維持に動員され、兵力不足に陥っていたドイツ軍を補う役割を担ったが、戦況の悪化と士気低下により統制は次第に弱まっていった。加えて、『黒い手』(crna roka)という残虐なテロ集団も現れた。「占領軍によるOFへの弾圧すら穏やかすぎる」と考える最も狂信的な敵対者たちで、ゲシュタポに時折後押しされながら、1943/44年の冬以降、OFとKPSの活動家を残忍に殺害し、現場に黒塗料で自らの手の形を残した。この『黒い手』の暴力は1944年半ばにリュブリャナ地域及びドレンスカ地方の一部で最も広範に展開され、その暴力は終戦まで収まることがなかった。
ドモブランツィ 1944年 (パブリックドメイン)
ゴレンスカ、シュタイエルスカなどパルチザン弱体地域での攻勢開始
3月19日から20日にかけての夜、ゴレンスカのパルチザンは、リュブリャナから北東約20kmのモラフチェにある2つの憲兵隊駐屯所建物を爆破した。占領軍は駐屯所を閉鎖せざるを得なかった。解放されたモラフチェを中心とするモラヴァ渓谷は、パルチザン第4作戦区域(ゴレンスカ、シュタイエルスカの部隊管轄)における最初の小規模解放地域となった。
シュタイエルスカへの遠征は1~2月に失敗していたが、現地のパルチザン部隊が攻勢を開始した。4月26日から5月1日にかけて、2個旅団がショシュタニュとヴェレニェの町と炭鉱、要塞を攻撃。地上部の採掘設備を破壊し19,000トンの石炭に放火し、武器を捕獲した。ほぼ同時期に、ポホリェ山麓のズレチェにある工具工場と、トルナバの道路上で大規模な敵部隊が破壊された。さらに5月1日には、ミスリニャの要塞と、モジリェ近郊ナザリェ地区の木製箱・兵舎用小型工場が破壊された。このメーデー活動は 民衆に強い共鳴を呼び起こし、また、 この地域のドイツ軍需経済を深刻に脅かすものだった。これらの地域では新たな戦闘員の流入が増加した。1944年4月27日から6月15日にかけ、第4作戦区域には1944年5月から7月の間に5,881名の戦闘員が各部隊に加入し、うち3,187名はサヴァ川を越えて第7軍団へ集団で送られた。このうちトルボヴリェ炭鉱の労働者・職員が2,000人以上含まれていたため、同炭鉱の生産量は50%減少した。このゴレンスカとシュタイエルスカでのパルチザンの攻勢は、それまでパルチザン勢力が弱く、強固だったドイツ支配を揺るがす突破口となった。

1944年、ゴレンスカ、シュタイエルスカのパルチザンの攻勢地概念図。赤印は解放地域。黒印はドイツ軍部隊や施設を攻撃したところ。Google Mapsより
さらに、コロシュカ地方においても 4 月末に統一指令部(コロシュカ分遣隊群司令部)が設立され、第四作戦司令部の下に入った。300名弱の戦闘員だったが、ドラーヴァ川を越えて、スロヴェニア領域で敵の哨戒隊、送電線、製材所、鉄道輸送などの破壊工作、武器捕獲を行った。これにより、コロシュカでも解放運動が組織的段階へと移行し、スロベニア全土における抵抗の拡大という 1944 年春の特徴がいっそう明確となった。
連合国軍の攻勢とスロベニア戦線の戦略的重要化
1944年6月以降、第二次世界大戦の戦局は大きく転換した。連合軍のノルマンディー上陸、南フランス上陸、そしてソ連軍の大攻勢により、ナチス・ドイツは東西南の三方向から圧迫される状況となった。この世界的な戦局の変化により、アルプスとアドリア海の間に位置する、交通と軍事の要衝スロベニアを押さえるパルチザンの活動は、 ドイツ軍の移動・補給を妨害するという戦略的役割を担うようになった。
さらに、チトーが8月12日に英国首相チャーチルと会談して、パルチザンが国際的にユーゴスラビア正統政府として認められ、スロヴェニアは、連合国軍の一翼を正式に担うこととなった。

チトー・チャーチルのナポリ会談(1944年8月12-13日) (パブリックドメイン)
この連合軍との繋がりは物資支援だけに限られなかった。当時、1944年6月までに連合軍がローマ以南をドイツから解放していた。フラニャなどにあった秘密のパルチザン病院 は、負傷者や重度の障害者を多く収容していた。 彼らの治療と介護をより良くし、病院の収容能力を解放するために、1944年8月1日、軍団は70人の動けない 負傷者と障害者を、ベラ・クライナから飛行機で 南イタリアの医療施設に移送した。1944年6月、パルチザンは鉄道破壊の大攻勢に出た。これは連合軍のノルマンディー上陸と連動した戦略行動であった。スロベニア全域で鉄道が寸断され、特にイタリアへ通じる主要鉄道はすべて不通となり、ドイツ軍の補給線に大きな打撃を与えた。連合国軍の航空機も鉄道破壊を試みたが、目標が小さく、効果は限定的であった。実際に鉄道網を寸断したのは5~10人のパルチザンの地上破壊工作部隊であり、スロベニア戦線が連合軍の戦略を支える重要な役割を担っていたことを示している。ドイツ軍は、戦車・砲兵・航空支援を備えた赤軍(ソ連)とユーゴスラビア正規軍が数十万規模でベオグラードからクロアチアへ北西方向に進撃してくるのに対抗し、1944年10月中旬、スレム戦線を構築した。これは、ベオグラードとクロアチアのザグレブを結ぶ「バルカンの大動脈」上に構築された、塹壕・土塁・野戦要塞・地雷原を組み合わせた本格的な遅滞防御線である。この防衛線を保持しながら、時間を稼ぎながら撤退することを目的としていた。スレムとは、ドナウ川とサヴァ川に挟まれた細長い平野の地方名で、この構築以後、ここがユーゴスラビアの戦いの主戦場となった。

ドイツのスレム戦線とユーゴスラビア軍との戦いのイメージ地図
1944年12月、過去最大の解放区とパルチザン
1944年の夏から秋にかけて、パルチザンの日々の破壊工作や局地戦、組織づくりの積み重ねが、気づけば戦局全体を押し動かしていた。鉄道破壊は、リュブリャナ西部のソチャ川に沿うコバリドやトルミンを含む山峡地域、リュブリャナ南西のトリエステへ向かう途中に広がるカルスト高原(クラース地方)、イストリア、そしてシュタイエルスカへと広がり、ドイツ軍の補給線は少しずつ、しかし確実に弱っていった。都市部ではトリエステを中心に、スロベニア人とイタリア人の共同抵抗運動が成長し、地下組織は武装部隊を生み出すまでに成熟していた。さらに、7月〜9月、ヴェレニェとツェリェの間の山地西側に位置する上サヴィニャ渓谷では、Lučeルチェ から Šmartno ob pakiシュマルトノ・オブ・パキ に至る南北5km・東西10kmほどの谷筋の細長い帯状地域が、治安部隊の崩壊によりパルチザン支配下に入り、その後周辺も含め面積約500平方㎞の解放区となった。これは、ゴレンスカとシュタイエルスカの境界をなしていた要衝Trojaneトロヤネ峠の掌握に繋がって、ドイツ軍の進撃・補給ルートに打撃を与えた。加えて、東コロシュカのパルチザン部隊は6月時点で230名にすぎなかったが、7月に450名へと倍増、9月には700名となり、武器の補充とともに行動範囲を急速に広げた。こうした北部での抵抗の広がりは、ドイツ軍の占領体制を静かに、しかし確実に揺るがしつつあった。また、9月末、独立遊撃パルチザンの1中隊は、プレクムリュにも入った。スロヴェニア南部の解放区では、ドイツ軍がノヴォ・メストなど都市部に強固な拠点を維持していたが、森林・丘陵地帯を中心とする解放区そのものは全体として安定して維持され、局地的には拠点同士がつながる形で、わずかながら行動圏が広がっていった。とくにベラ・クライナでは、政治・軍事の中枢を含む、極めて安定した解放区が形成されていた。1944年12月1日時点で、スロベニアのパルチザン部隊は約38,000名に達し、戦争中で最大規模となった。

1944年7~9月の上サヴィニャ渓谷解放(赤地の都市と近隣の山地)と要衝トロヤネ峠の制圧の地図。(GoogleMaps)。
1945年春のパルチザンの2つの大きな敗北----「合流作戦」の失敗と、ドイツ軍の撤退のための「Winterende」作戦での打撃
1944年末、ドイツ軍は撤退を保障するため、冬のうちに背後のパルチザンを殲滅的に撃破しようとし、スロヴェニア全域にわたって大規模な攻勢を仕掛けた。この攻勢の中で、東部のシュタイエルスカでは、秋に形成された解放区が維持できず、パルチザンは激しい攻撃を受けて山岳地帯へ後退した。
1945年春、ドイツ軍に手痛い打撃を受けてしまったのが、第4作戦区域の軍と第7軍団の連携によるサバ川渡航作戦の失敗だった。1945年2月25日の夜、サバ川北岸のLitijaリティヤ-Trbovljeトルボヴリェ-Laškoラシュコ一帯の工業都市を取り囲む農村・山岳地帯を拠点としていた第4作戦区域の部隊が、サバ川を渡って南へ進出し、ドレンスカおよびベラ・クライナを基盤とする第7軍団と合流しようとした。この南北連携の目的は、前年末のドイツ軍大攻勢によってシュタイエルスカの解放区を失い、山岳地帯に散在して弱体化していた同地方のパルチザン部隊を救出し、さらに兵力をドレンスカに集中させてドイツ軍の補給路・撤退路を脅かすことにあった。しかし、渡河地点であるサバ川とサビンジャ川の合流点ズィダニ・モスト(Zidani Most) はドイツ軍とドモブランツィ軍が強固に守備しており、増援部隊も駆けつけたため、第4作戦区域軍の渡河は阻止され、第7軍団の北上も妨げられた。両部隊は合流どころか、逆に第7軍団が包囲されて壊滅の危機に陥るほどの敗北を喫する結果となった。
この敗北は第7軍団に深刻な影響を与えた。部隊は大きく損耗し、指揮系統は混乱し、戦闘能力を大きく失った。ドイツ軍はこの状況を敏感に察知し、第7軍団の中枢が置かれていたコチェフスキ・ログ周辺にも3月初旬にかけての激しい攻撃を行い、パルチザン側の戦局をさらに悪化させた。しかし、最高司令部は崩壊せず、第7軍団を急いで再建していった。

1945年2つの軍の合流予定図。黒と青のピンの立つところはドイツ軍の占領都市。
1945年3月20日ころからドイツ軍の「Winterende(冬の終り)作戦」が始まった。スロヴェニアのゴレンスカ地方には、第9軍団約10,000〜12,000名が山岳・高原・森林地域に散在していた。イタリア国境地帯とスロヴェニア西部を占領していたドイツ軍は、撤退路を考えると、西側では連合軍が北イタリアに迫り、またトルミン—コバリドを通る谷あいの一本道は山側からの攻撃に弱かった。そこでTrnovski gozd(トルノヴォ森林高原)に展開するパルチザン第9軍団を殲滅し、高原西側のプレドメヤに橋頭保を築いて南への道を確保し、そこからアイドフシュチナ—ポストイナを経てリュブリャナ、さらにオーストリアへ向かう大きな撤退ルート(添付地図のとおり)を安全にしようとした。パルチザンとの長期戦で消耗していたドイツ軍には、トルノヴォ森林高原にいたその一部約3,000名を包囲・殲滅しようとするのが精一杯だったが、ドイツ軍とドモブランツィなどの混成部隊による包囲・襲撃作戦は成功し、第9軍の部隊は東から南へ、北西から南へ、北東へと分裂して退避した。いずれもかろうじて包囲を突破したが、北東へ向かいツェルクノを経てポレゼン山に至った部隊は、追撃してきたドイツ軍の奇襲を受け、32名が戦死し、捕虜145名が銃殺されるという厳しい損害を受けた。「冬の終り作戦」の期間中、第9軍団は戦闘損失と散開・行方不明などを合わせて 3,039 名、全兵力の約 3 分の1 を失った。しかし、ゴレンスカ地方には依然として第9軍団の残存部隊が健在であった。
この状態のスロヴェニアに、東からソ連軍がハンガリーから進軍し、南からユーゴスラビア軍がスレム戦線を突破して進軍して来て、残った第9軍団も最終解放に向けて共に戦うことになるのである。ドイツ軍はスレム戦線で時間を稼ぐ一方、オーストリアへの秩序ある安定的撤退を実現するため、その「空間」を確保する作戦をとった。1945年3月20日ころから開始された「Winterende(冬の終り)作戦」である。 スロヴェニアのゴレンスカ地方には、スロヴェニア・パルチザンから昇格した「ユーゴスラビア第9軍」約10,000〜12,000名が山岳・高原・森林地域に散在しており、ここを通って撤退しようとするドイツ軍にとっては、絶対に排除すべき存在であった。 しかし、パルチザンとの長期戦で消耗していたドイツ軍には、Trnovski gozd(トルノヴォ森林高原)にいたその一部約2,500名を包囲・殲滅するのが精一杯であった。ドイツ軍(警察部隊まで動員)と「スロヴェニア国防軍」などの混成部隊による包囲・襲撃作戦は成功し、第9軍の部隊は東から南へ、北西から南へ、北東へと分裂して退避した。 いずれもかろうじて包囲を突破したが、北東へ向かいツェルクノを経てポレゼン山に至った部隊は、追撃してきたドイツ軍の奇襲を受け、32名が戦死し、捕虜145名が銃殺されるという厳しい損害を受けた。 しかし、これは第9軍団全体の一部に打撃を与えたにすぎず、ゴレンスカ地方には依然としてユーゴスラビア第9軍が健在であり、撤退するドイツ軍の前に立ちはだかり続けた。

(左)1945年3月の「冬の終り作戦」の概念地図(黒がドイツ軍など。赤がユーゴスラビア第9軍) 『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.340の地図を参考に著者が作成。
(右)現在のGoogle MyMapsによる位置関係

ドイツ軍の構想したオーストリアへの撤退ルート
ための“遅滞線”として機能したと考えられる。
[1944年~1945年3月のまとめ]厳しいドイツ支配下でも、パルチザンは戦い続け、戦後のスロヴェニア国家となる、全土をより代表する機関を形成し、また今まで弱体だった地域でも解放を進めた。1944年末には、解放地域の広さととパルチザン兵の数は最大となった。しかし、ドイツ軍を過少評価したサバ川渡河作戦の失敗や、連合国軍の攻勢から逃れるためのドイツの必死の掃討作戦により、パルチザンは1945年3月に極めて大きな打撃を受けてしまった。しかし、一つの軍団やその他の部隊は健在であり、続く最終解放戦にソ連軍、西側連合国軍、ユーゴスラビア解放軍とともに臨む態勢を維持できた。