完全解放成る!!
---1945年3月末~5月15日
(1945年3月の NOVJ 再編により、第7スロヴェニア軍団および第9スロヴェニア軍団は名目上「第7軍」「第9軍」に格上げされたが、実戦上の編成・指揮系統は軍団レベルのままであったため、本稿では Klanjšček(1984)に従い“軍団”の名称を用いる。)
ソ連軍によるプレクムリェの解放プレクムリェは1945年3月末から4月初頭にかけて、ハンガリー方面から進撃したソ連軍によってハンガリー占領から軍事的に解放された。ソ連軍がそのままオーストリアへ向けて前進したため、後続してスロヴェニアのパルチザン部隊が地域に入り、行政・治安、そして戦後の政治統合を引き継いだ。スロベニアで最初に完全に解放された地域となった。
軍管区司令部(行政・政治・動員・補給) └── 第4作戦地域(軍事作戦の司令部) ├── 第7軍団(南部) ├── 第9軍団(西部) └── 軍団担当外地域の地方部隊 (行政上は軍管区司令部所属、 作戦上は第4作戦地域の指揮下)
2025年4月筆者撮影の、プレクムリェのムルスカソボタ市中心部の「勝利の記念碑」。赤軍の勲章をバックに、ソ連兵とスロヴェニアパルチザン兵が並ぶ。戦後、ソ連とユーゴスラビアは関係が悪化するが、ソ連がこの地域を解放したことは史実なのでずっと建てられていると思われる。真ん中の、ロシア語とスロヴェニア語の碑文は共に「兄弟なるソ連邦とユーゴスラビアの自由と独立のための戦いで倒れた英雄たちに、永遠の栄光を」となっている。
軍管区司令部(行政・政治・動員・補給) └── 第4作戦地域(軍事作戦の司令部) ├── 第7軍団(南部) ├── 第9軍団(西部) └── 軍団担当外地域の地方部隊 (行政上は軍管区司令部所属、 作戦上は第4作戦地域の指揮下)

勝利の記念碑の近くの公園には、占領期に迫害され命を落とした教育者たちを追悼する「ポムルイェ地方(ムル川沿岸地方の意味)の教師・教授の反ファシズム抵抗碑」(左)と、ムルスカ・ソボタおよび周辺地域でファシズムに抵抗し、戦い、あるいは犠牲となったパルチザンや活動家の名前を刻んだ名簿碑(右)が建てられている。最上段には「国民英雄(Narodni heroj)」の称号を持つケレンチチ・ヨジェ・ヤンコとトマシニ・シルヴィラの名が記され、その下に多くの地域の戦士・協力者の名が続く。

ムルスカソボタの博物館では、ソ連赤軍による解放については簡単な展示を行っている。
スロヴェニア軍団の打撃からの回復
1945年の春の始まりは、既述のように、2つの軍団の受けた手痛い打撃により、スロヴェニア人民解放部隊にとって戦争全期間を通じて最も厳しい試練の時期であった。しかし同時に、ソ連軍がプレクムリェを解放し、オーストリア国境へ迫るにつれて、ナチス敗北が不可避であるという認識が広がり、スロヴェニアの住民の間には解放への期待が急速に高まリ、新兵の加入や敵軍からの脱走兵が増加し、パルチザン側の戦力と士気は3月末から回復へ向かい始めた。1945年3月3日付の総司令部による概況によると、「作戦部隊は、名目上25,331名の兵士および将校を擁していた(実在兵力21,579名)が、そのうち1,275名は総司令部およびその直属部隊に所属していた。・・・第7軍団には8,231名(実数6,549名)、第9軍団には7,824名(7,526名)、そして※第4作戦地区(※どちらの軍団にも属さない部隊を指揮 私注)には12月15日時点で8,001名(5,991名)。後方部隊および施設には依然として人員が過剰であり、すなわち戦闘員および将校11,947名(11,459名)が配置されていた。・・・そのうち約17,000名が作戦地域に、約8,000名が後方に配置されていた。①」また、「ドモブランツィ゜(国防軍)」の拠点だった城塞都市ジュジェンベルク(Žužemberk)に対して、2月から連合国軍が空爆を行って、スロヴェニア軍を支援していたのは、連合軍がスロヴェニアを重視し、見捨てていないことの証しとなり、戦意の維持につながった。

右が「国防軍」(ドモブラン)がたてこもったジュジェンベルク城。城は11世紀以前に建てられ、貴族の館であった(市のサイトより)。

(左)ジュジェムベルク爆撃をする連合国軍南アフリカ軍の軍用機(パブリックドメイン) (右)ジュジェンべルクの丘に立つこの地域全体の慰霊碑。この下に1,440人のこの地域全体での戦死者・犠牲者の遺骨が眠っている②

(左)慰霊碑の脇には戦没者の名前をアルファベット順に刻んだ石板がずっと並んでいる (右)慰霊碑の傍のこの地域の地図と、他の慰霊碑・記念碑の多さを見ると、いかにこの戦争が激しかったかを物語っている(現地写真は筆者2025年5月撮影)
沿海地方とトリエステの解放
1945年4月、ヨーロッパの戦局は急速に連合軍優勢へ傾いた。アメリカ軍とイギリス軍はアペニン山脈からポー平原へ最終攻勢を開始し、4月21日にボローニャを占領した。同時にソ連軍は4月13日にウィーンを陥落させ、オーストリアへ深く進撃した。ユーゴスラビア軍も4月6日にサラエヴォを解放し、スレム戦線では4月16日までにドイツ軍陣地を突破した。
この状況下で、ユーゴスラビア内部に深く入り込んでいたドイツ軍は、西側連合軍への降伏を優先したいという政治的思惑から、撤退を急がず、スロベニア中央部への英米軍の進出を有利にする作戦配置に固執した。その間に、3月2日にクロアチアの沿海部の部隊を統合して成立したユーゴスラビア第4軍は、旧ユーゴスラビア=イタリア国境の要塞線を4月21日までに突破した。チトーが、連合国軍よりも早いトリエステ占領を最優先課題として命じたので、第4軍はイストラ半島とトリエステへ向けて進撃を続けた。一方、スロベニア側の第9軍団も4月20日にトリエステ方面への進撃準備を命じられ、25〜27日にゴリツィアへの道を開いた。これにより、トリエステ攻略の北側ルートが確保された。同時期、トリエステ市内でも蜂起準備が進み、市街戦部隊(約2,500名)と約4,000名の地下活動家が組織され、スロベニア人とイタリア人の共同で解放に向けた体制が整えられていた。イタリアでは連合軍の部隊がポー川を渡り進撃し、ミラノとヴェネツィアに入城した。イタリアの国民解放委員会(Comitato di Liberazione Nazionale — CLN)は4月25日、 全面蜂起の指令を出した。
1945年4月29日夜、第9軍団の一部隊は、トリエステ市街地に突入し、5月1日の朝までに鉄道駅と港に到達した。市内ではすでにスロベニア人とイタリア人による蜂起が始まっており、トリエステは事実上、解放軍の手中に入った。南側から第4軍の部隊も市街地に入り、蜂起勢力と連携して主要地点を掌握した。同時期、ゴリツィア、ポストイナなども解放され、第一次世界大戦後にイタリア領とされたスロヴェニア人居住地域は、ほぼ完全に自由となった。5月2日、ニュージーランド第2師団(連合軍)は、すでに解放されていたトリエステに到着した。市内の残存ドイツ軍は同日中に掃討され、3日には北方の最後の拠点が陥落し、3,000名以上の敵兵が降伏した。ユーゴスラビア軍は、残ったリエカのドイツ大軍の攻撃に集中した。このドイツ軍は、リエカからの海上脱出は連合軍とパルチザンに制海権を把握されていたため不可能だったので、とにかく北へ逃れようと、同5月3日から「ハリネズミ形」防御(全方位防御➂)の形でIlirska Bistricaイリルスカ・ビストリツァまでの20km以上を北上した。 しかし、山と第4軍主力部隊に囲まれて、5月7日、ついにそこで16,000人が降伏した。
➟
(左)トリエステ解放戦(TRSTがトリエステ。赤がユーゴスラビア第4軍とスロヴェニア第9軍団。青がドイツ軍)(パブリックドメイン)
(右)『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945
p352の戦況図を基に筆者作成.

(左沿岸地方およびトリエステ解放のための戦闘 (右)トリエステの第4軍) (共にパブリックドメイン)
スロヴェニア政府の樹立
軍事的成功とともに、スロベニアの政治的再建も進んだ。1945年4月27日、スロベニアの中枢機関はベラ・クライナから解放されたプリモルスカへ移動し、5月5日、アイドフシュチナにおいてスロベニア人民政府を正式に樹立した。ボリス・キドリチを議長とする14名からなるこの政府の成立は、4年間の激しい戦いを経て、スロベニアがユーゴスラビア連邦の一構成国家として再生したことを象徴する歴史的な出来事であった。
アイドフシュチナのDvorana prve slovenske vlade(最初のスロヴェニア政府の建物)の位置と、2025年には多目的ホールになっていたその建物(筆者撮影)

アイドフシュチナの「スロベニア初代政府成立地」に設置された屋外展示パネル(筆者撮影)。写真は当時の首相ボリス・キドリッチによる政府成立宣言の様子。原写真:France Cerar
展示写真のキャプションは「今日この場所から、スロベニアの歴史の新しい時代、自由の時代、自らの生活を自ら管理する時代が始まる」

この最初の政府の建物の傍にあるイヴァン・カンカル(1876–1918)の胸像。スロベニア近代文学の父とされ、民族意識と社会正義を訴え続けた作家。1パルチザン部隊の名にも採用されたその思想が、スロベニア初代政府の精神的基盤となったためと思われる。(筆者撮影)
リュブリャナもついに解放
5月6日、ドイツ軍、ドモブランツィ軍は集結していたノヴォ・メストを放棄して、北へと向かった。第4軍は、南と西からリュブリャナに迫るとともに、雪のアルプスのヴルシッチ峠を越えて5月クランシュカ・ゴラに現れた。リュブリャナにいたドイツ軍とドモランツィは包囲される危険を感じ、5月9日に、リュブリャナからクラーニ方面に逃走し、リュブリャナはついに解放された。街は直ちに花や旗で飾られ、第4軍と北上して来た第7軍団は歓喜に沸く市民に迎えられた。

(左)イリルスカ・ビストリツァで捕虜になったドイツ軍の兵士たち (右)リュブリャナに入場したユーゴスラビア第4軍 (ともにパブリックドメイン)
敗残兵集団との最後の最後までの戦い・完全勝利へ
このスロヴェニアでの戦いは1945年5月15日にコロシュカのPoljanaポリャナで終わるが、2025年時点で、その整備された公園には最後の戦局と関連の写真を示す屋外展示が下のようになされている。展示は、2010年5月、出来事の65周年を記念してカリンシア地方博物館によって設置された。企画担当はBrigita Rajšterブリギタ・ライシュテルさん。展示は2021年に改訂された。展示の作者はMaljan Linasiマリャン・リナシ(博士)となっている。ここからの記述はこの屋外展示を基にするる
下の大きな図は、展示されていた、1945年5月9日から15日にかけての、スロヴェニア北部の最終戦況図。青矢印がドイツ軍やその協力者たちの動き。赤塗りつぶし矢印がスロヴェニア軍など解放勢力の5月9日から12日の動き。赤枠の白矢印が同勢力の5月13日から15日の動きを示している。それぞれの矢印に沿って書かれているのは部隊名。この戦況図と説明により、スロヴェニア戦線での最後の戦いの様子が分かる。

第4軍の1旅団 は、5月3日から8日にかけて、南コロシュカを占領した。当時、この地域にはまだ西側連合軍は到達しておらず、峠の北側は「空白地帯」となっていたため、スロヴェニア軍が先に進出して谷の出口を封鎖した。彼らはイギリス軍とここの占領を巡って競争していた。この第4軍がスロヴェニアからの「敗残兵」のドイツ軍とドモブランツィの退路を断ち捕捉する左翼を形成した。右翼は後述する、マリボルから追走していった第3軍やブルガリア軍、ソ連軍であった。5月10日から12日にかけて、このコロシュカ地域のボロヴリェ(Borovlje、オーストリア読みフェルラッハ)付近で最も激しい戦闘が起きた。南側のトルジチ(Tržič)で、ドイツ軍とドモブランツィ部隊が、北上して来るスロヴェニア軍の圧力に耐えきれず、5月11日に町を放棄して北へ退却して来たためであった。上の戦況図の一番左にその逃走したドイツ軍の一部が描かれている。第4軍は彼らの戦車と砲兵により大きな打撃を受け、突破されてしまった。彼らはさらに北へ逃走し、翌5月12日、約12,000名がドラーヴァ川の橋を渡ってCelovecツェロヴェッツ(現クラーゲンフルト)のイギリス軍に投降した。彼らはスロヴェニア軍からの報復を恐れ、あえて西側連合国に投降したのである。第7軍団がこの北方逃走部隊を追って山岳地帯を突破し、第4軍の別の部隊も東側からコロシュカへ進出したため、スロヴェニア軍の進撃線はクラーゲンフルト方向へ収束した。オーストリア南部のスロヴェニア人居住地域を占拠したい目的もあった。しかしクラーゲンフルト市内はすでに英軍の占領地域であり、両軍は市外で英軍と接触した時点で進撃を停止したということも見られる。
Poljanaのコロシュカの戦いについての公共掲示より
左上からフェルラッハ(Borovlje)の戦況図(三本の鉄道の交わる場所が市。赤はスロヴェニア軍。青はドイツ軍。2番目の写真はコロシュカを占領するスロヴェニア軍。左下の写真はオーストリア・クラーゲンフルトを占領したスロヴェニア軍。右上の写真は地元の人々に歓迎されるスロヴェニア軍。
2番目の写真はコロシュカを進むスロヴェニア軍のトラック。右下はオヘストリア・フェルカーマルクとのイギリス軍戦車
このようにどのドイツ軍も、その協力勢力も北のオーストリアへ逃走しようとしていることがこのPoljanaでの全体戦況図や、個々の局面を描いた屋外掲示の説明から分かる。以下、さらに個々説明しよう。
5月初旬、マリボルにいたドイツ軍は一刻も早くオーストリアへ逃げようと、街を放棄して北に向かった。すでにオーストリアは連合軍が大部分を占領していたが、ドイツ兵やドモブランツィ、チェトニックなどの協力者たちは「西側連合国に降伏したい」という目的を持っていた。ここに5月9日、クロアチアのザグレブで編成され、北上して来た第3軍が無血入場して、マリボルから東へ逃走するルートは完全に断たれた。第3軍はドラボグラード方面へとさらに西に向かった。
4月からに二つの敗残兵大集団がスロヴェニア北部に集中して来ていた。いずれもオーストリアへ行くためにはその南のスロヴェニアを通らねばならないためであった。
一つは、ギリシヤ、アルバニアからのドイツ軍集団「E」と呼ばれた軍団である。彼らはツェリェ盆地まで北上して来たが、ここで第4作戦区の部隊に攻撃され、5月9日から10日にかけての夜に、トポルチツァのユーゴスラビア軍第4作戦地区司令部にて、全部隊のユーゴスラビア解放軍への降伏文書に署名した。しかし、驚くべきことに、署名した司令官アレクサンダー・レールは、その直後にスロヴェニア軍の隙を付いて、部下と別行動を取って北へ脱出し、オーストリア側へ脱出して英軍に投降した。しかし、その後ユーゴスラビア当局に引き渡されて1947年に戦犯として処刑された。彼の部隊もショシュタニから北西へと向かい、 Št. Vid(シュト・ヴィド)の峠を越えて上メジャ渓谷とホルメツ峠(Poljanaとオーストリアの国境との間の峠にある)へ向かい、イギリス占領地域への突破を試みた。しかし、戦況図を見ると解放側に阻止されている。
もう一つの敗残兵大集団の主力は、ユーゴスラビア軍の追撃を逃れて北上してきたナチス・ドイツの傀儡国家クロアチア独立国(NDH)の政府関係者、その正規軍であるクロアチア・ドモブランツィ、そして政権政党ウスタシャの党員およびウスタシャ軍であった。これに、ツェリェ周辺に駐留していたドイツ軍後方部隊、スロヴェニアのドモブランツィ、さらに西側連合軍に保護されると信じて同行した民間人避難民が加わった雑多な集団であった。第4作戦地区司令部は配下の部隊に対し、「占領軍を我が国から追い出すのではなく、殲滅すべし」と強調した。これにシュタイアーエルスカ全域に急速に形成、展開した第4作戦区の小規模部隊が応えて、地雷敷設活動や、鉄道破壊活動を繰り広げた。4月末には、ドイツ本土へ向かう最後の鉄道線路であったドラヴォグラード=クラーゲンフルト線も遮断した。また、この間、オーストリアとの国境となっている山脈の峠はすべてユーゴスラビア軍が押えた。敗残兵集団は、ツェリェから北西へ進み、ヴェレニェを経て、5月12日ドリチ(Dolič)周辺で第3軍指揮下のボスニアからの師団と激しく戦った。ドリチ周辺の戦闘は5月13日にも続き、5月14日に終結した。解放側は 82名戦死、186名負傷。敗残兵集団は 約1,500名戦死、11,000名が捕虜となった。この後、敗残兵集団の一部は、 スロヴェニ・グラデツ → ドラヴォグラードへと移動した。また一部は Stari trgスタリ・トルグ→ Seleセレ→ Kotljeコトリェ を経由して北上した。5月14日正午に スロヴェニア軍はスロヴェニ・グラデツを解放した。このころまでにブルガリアの正規軍が、ドラボグラードのドラヴァ川の北岸一帯を押えた。プルガリアは枢軸国側だったのだが、1944年ソ連軍の侵攻を受け、クーデターが起き、これ以後連合国の一員としてユーゴスラビア戦線に入って来ていたのであった。これにより、敗残兵大集団はドラヴァ川を渡ってオーストリアに行くことが不可能となり、鉄道と並行しているメジャ川渓谷の道を西に進んでHolmec峠を越えてオーストリアに行くルートしか無くなったのであった。指導者も無く、情報も無く、極限状態の心理状態になっており、また「この道を行けばイギリス軍に保護される」という一縷の幻想を追い求めていたと考えられる。

(左上)ドリッチの攻防地図。(左下)ドリッチの北のミスリニャ渓谷に入ったクロアチア政府軍の縦列の写真。
(右上)敗残兵集団のスロヴェニア・グラデッチからの撤退の写真。(右下)ドリッチの南フダ・リュクナでの戦闘の後の写真。Poljanaの屋外展示パネルより
5月11日には、マリボル方面から進撃してドラヴォグラード西側に展開した第3軍と、組織を立て直してスロヴェニア内部から北上して来た第7軍団、さらに北岸の逃走路を封鎖したブルガリア軍によって、ドラヴォグラード包囲線が形成された。12日にドラヴォグラードの橋に殺到した傀儡国家クロアチア独立国NDH主力は突破に失敗し、13日夕方には圧力が弱まってメジャ渓谷へ転進した。同夜には、一部の打撃集団がセレからグシュタニ経由で第3軍の西側を突いて一時的に撃退し、鉄道橋を渡って対岸に橋頭堡を築いたが、北岸の主要逃走路はすでに封鎖されていたため、そのうちのごく一部を除いてオーストリアへの撤退は不可能であった。14日の第3軍の総攻撃によって包囲が完成し、多くが戦死し、約2万人の兵士と民間避難民が捕虜となった。5月14日、第3軍がPoljanaの守りを固めている中、このNDHらの敗残兵集団がPoljanaにたどり着き、午前9時に戦闘が始まり、夜まで激戦が続いた。

(左上)5月12日のドラヴォグラードとドリッチの戦況図。 (左中)ドラヴォグラードとスヴェティ・ボシュトヤンの間を行く敵部隊(マリボル方面から北岸を伝って来たと思われる 私注)。
(左下)ドラヴォグラードの南のポドグランツに到着した第3軍の部隊
(右上)戦闘と砲撃後の Št. Janž〈聖ヨハネ、現在の Bukovjeブコヴィエ)の様子 (右中)戦闘前の同地
(右下)5月13日と14日夕方の戦況図。14日には捕虜にならなかった敗残兵集団はメジャ川の渓谷に追い立てられた Poljanaの屋外展示

(左上)5月13日のPoljanaの戦況図。南から来たレールの部隊との交戦が描かれている。 (左下)Poljanaの教会近くで没収した物資をトラックに積んでいる写真。
(右上)戦いの後のPoljanaの写真。 (右中)メジツァ近くの封鎖された道路の写真。
(右下)第4作戦地区の部隊 ― 1945年5月11日、チュルナ・ナ・コロシュケムを通過中の写真。Poljanaの屋外展示
この戦闘により、NDH 主力は Poljana の封鎖線を突破し、一時的にブライブルク(プリベルクPliberk)へ到達した。しかし、イギリス軍はロンドンからの命令により、逃亡者を受け入れることを禁じられていたため、到達した全員をユーゴスラビア第3軍に引き渡した。第3軍は、突破方向に合わせて ブライブルク周辺に第二封鎖線を構築し、最終的に全員を包囲した。5月15日午後、短い衝突を伴ったのち、NDH 主力は降伏した。第3軍は 約3万名のNDH兵とチェトニク兵、さらに約2万人の民間人を捕らえた。ここに第二次大戦のユーゴスラビア戦線は解放側の全面勝利で幕を閉じ、ユーゴスラビアは独立を完全回復した。
この巨大な捕虜集団は急速にマリボルへ移送され、5月18日に到着した。移送中に多くの捕虜が死亡し、マリボルでは民間人とクロアチア国防軍(ホームガード)は解放されたが、ウスタシャとモンテネグロ・チェトニクの多くは、テズノの反ファシスト防衛壕、ドゴシェ、ポホリエ山麓などの大量殺害地点で悲劇的な最期を迎えた(「パルチザンの黒歴史」参照)。

(上)Libuče の交差点 (中左)Libuče での降伏図 (中の中)民間人避難民の一団 (左下)Libuče の交差点 (右下)祖父の背に乗る孫 Poljanaの屋外展示
[まとめ]
ソ連軍によるプロクムリェの解放を皮切りに、ユーゴスラビア軍、西側連合国軍、ブルガリア軍との共同の作戦で、ついにスロヴェニア全土をパルチザンは解放することに成功した。スロヴェニアは、オーストリアへ逃げ込もうとするバルカン半島にいたドイツ軍など「敗残兵」の集まる場所となったが、この多くを捕獲した。
①『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) Zdravko Klanjšček(ズドラヴコ・クラニシェク)著
1984年 Vojnoistorijski institut(軍事歴史研究所、ベオグラード)p.335
②ジュジェンベルク市の公式サイト https://www.zuzemberk.si/zgodovina/
➂「Hedgehog defence」(Fandom Military) 円形に近い陣で、本来は固定の陣である。火器など攻撃兵器を全方位に向けて動いて行ったものと思われる。