パルチザン断片集
---帽子と敬礼。最後まで隠した病院。人形劇。戦場のリアルな証言。
象徴としてのトリグラウカ帽と独自の敬礼、山中に築かれた隠れ病院、即興の舞台で演じられた人形劇、そして戦場について語られた生々しい証言。これらは一見ばらばらの断片のようでありながら、互いに響き合い、一つの歴史の中で複雑な像を結んでいる。
パルチザンの帽子と敬礼
「スロベニアの最初のパルチザンたちは、さまざまな帽子をかぶっていた。スポーツキャップ、ベレー帽、シャイカチェ(旧ユーゴスラビア軍の帽子)などである。当然のことながら、スロベニアの各地域で蜂起を組織した者たちは、統一された帽子を導入しようとした。これにより、・・・パルチザン同士が互いを認識できるようになるはずだった。・・・1942年4月19日、アレシュ・ベブラー、イヴァン・ヤキッチ=イェリン、アンテ・ノヴァクがクロアチアの村グルバイェルの・・・ヨシップ・アブラモヴィッチ=カパの家で、クロアチアのパルチザンと2日間の会合を持ち・・・、スロベニアとクロアチアのパルチザン部隊間の協力計画を立てたとき、彼らはクロアチアのパルチザンから、3つの角にカットされた軍用帽子、いわゆる『パルチザン帽』を受け取った。4月24日には、第3部隊司令部が指令を出し、・・・『パルチザンの制服を徐々に統一することを目的として、パルチザン用帽子Triglavkaトリグラウカを導入する。』 クロアチアの『パルチザン帽』は、※その形状から(※スロベニア最高峰で3つの山頂を持つトリグラウ山に因んで 私注) 『トリグラウカ』と呼ばれ、この経路でスロベニアのパルチザンに伝わった。・・・その見本となったのは、スペイン共和国軍兵士が着用していた帽子だった。この帽子はパルチザン活動が始まって1年以内に、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアに広まり、そこから・・・スロベニアにも伝わったのである。・・・パルチザンの制服の最初の要素であるトリグラウカは、1942年秋にスロベニアのすべてのパルチザン部隊に広まった。①」
すなわち、スロヴェニアのパルチザンは、1942年春までにはクロアチアのパルチザンと連絡を取り合っていたこと、その中で、クロアチアパルチザンが被っていた帽子が、スロヴェニア最高峰、現在のスロヴェニアの国旗、国章にも描かれている、シンボルであるトリグラウ山に形が似ているため、スロヴェニアパルチザンにも急速に普及したこと、それは指導部からの指示に基づいていて、パルチザンが、散発的ゲリラ集団の寄せ集めから、組織的に統一された軍隊へと成長していったことを示している。
また、前年7月に「パルチザン法」が司令部から制定されていたが、その中にあった互いの「敬礼」の仕方も定着していった。それは「右手の握り拳を帽子の縁に掲げ、『戦いへ!(U boj!)』と叫び、『自由のために!(Za slobodu!)』と応答するものである。②」
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(左)リュブリャナ市博物館に展示されているトリグラウ帽(筆者撮影) (右)パルチザンの敬礼(パブリックドメイン)
世界文化遺産候補にもなったパルチザン病院
「パルチザンたちは森や地下の洞窟、その他、人の目につきにくい場所に病院を建設した。・・・数歩離れた場所からでもほとんど気づかれることはなかった。隠されたパルチザン病院は、厳重な警備措置によってさらに守られており、それがしばしば最大の武器となっていた。その正確な場所は、スタッフと親しい関係者、そのほとんどが地元住民である人々だけが知っていた。患者のケアにあたったのは、244名の医師、260名の医学生、38名の有資格看護師、そして様々な看護学校や講習で訓練を受けた約1,000名の臨時救急隊員(一部の推計ではさらに多い)だった。戦争中、約120か所の隠された病院で15,000人以上の負傷者や病人が治療を受けた。・・・1943年秋のイタリアの降伏後に初めて主要な病院が設立された。・・・すべての隠されたパルチザン病院の中で最も有名なのが『Frajaフランヤ』である。この病院は、チェルクノ市ドレンニ・ノヴァキにある、到達が非常に困難なパシツェ渓谷に設置されていた。負傷したパルチザンたちは当初、近くのポドニヴチ村の農家で治療されていた。しかし、そこが危険になりすぎたため、地元農民・・・が、パシツェ渓谷へ通じる道を案内した。その直後、最初の木造小屋が建てられ、1943年12月23日に最初の負傷者が収容された。・・・管理者フランヤ・ボイツ医師の名を冠した フランヤ病院 が誕生した。戦争末期まで建設は続けられ、最終的には渓谷の底に 14棟もの木造小屋 が、さまざまな用途のために密集して建てられた。渓谷の中央部に位置する本病棟は重傷者のための施設であったが、それとは別に、チェルクニャンスキ・ヴルフからイェロヴィツァにかけて、・・・ 10の小規模病棟 が各地に設置された。・・・病院への主要なアクセスは、渓谷を流れるチェリンシュチツァ川に沿った細い山道であった。道の終盤、川が小さな段差を落ちる部分には仮設の木橋が架けられ、その最初の橋は石段へと続く 跳ね橋になっていた。負傷者は近くの農家から 目隠しをされ、主に夜間に 病院へ運ばれた。戦争中、フランヤの中央病棟では、さまざまな国籍の負傷者や病人が約700人治療を受けた。スロヴェニア人以外にも、他国からの患者が約100人いた。内訳は、イタリアから43人、旧ソビエト連邦から24人、その他のユーゴスラビア共和国から15人、フランスから9人、ポーランドから2人、オーストリアから2人、そしてアメリカ合衆国から2人である。病院の外部病棟では約300人が治療を受けた。彼らは異なる社会的・文化的背景を持っていたが、自由と平和という同じ目標のために戦っていた。このため、病院への入院を拒否された者は誰もいなかった。 ・・・手術のほとんどは、通常入手可能な麻酔薬(エーテル、ペントタール、その他の薬剤)を用いて行われたが、抗生物質、血液、血漿は不足していた。・・・手術用布や器具の消毒もその場しのぎで行われていた。1944年末に高温蒸気滅菌が導入されるまで、あらゆるものを煮沸していた。フランヤ病院の看護スタッフには、仕立て屋や画家から主婦、林業従事者、道路補修工など、様々な職業の人々が含まれていた。彼らは2回の看護講習を受け、働きながら技術を習得した。・・・病院には調理師、警備員、担架担ぎ手といった、同様に重要な補助スタッフもいた。彼らの多くは、回復後にスタッフに加わった元患者だった。 医薬品や医療用品は様々なルートを通じて供給された。それらは現地の組織によって集められ、届けられた。一部の医薬品はミラノやグラーツから送られてきたものさえあった。1944年3月、連合軍の航空機が救援物資の投下を開始した。・・・フランヤは、独自の軍事防衛体制を備えた唯一のパルチザン病院であった。・・・武装警備隊は24時間体制で勤務し、偵察隊は夜明けから日没まで活動した。彼らの見張り所は、渓谷から約200メートル上流にある小川の右岸の岩の上に位置していた。・・・彼らは紙にメッセージを書き、包帯で小さな石に巻き付け、見張り所から噴水のそばにある病院の庭へ投下した。そのメッセージは回収され、病院長または政治委員(共産党の代表であり、病院管理部のメンバーでもある)へと伝えられた。この地域の一部は地雷原で守られていた。渓谷の両斜面にはいくつかの防御用遮蔽物が築かれており、危険が生じると、機関銃手と2人の補助員からなるパルチザンの3人組が配置された。防御用遮蔽物に加え、スタッフは負傷者のための3つの避難所を建設した。・・・ 敵は渓谷を2度攻撃したが、病院の存在に気づくことはなかった。ドイツ軍パトロールによる最初の攻撃は1944年4月24日に発生した。負傷者は一時的に避難させられ、数回の移転を経て渓谷に戻った。1945年3月24日の2度目の攻撃は、防御用バンカーに潜むパルチザンによって撃退され、その間、負傷者は避難所に留め置かれた。 ・・・病院は『Bolniški list』と題した独自の会報を発行した。そこには、特に重要な役割を果たした男女の2つの合唱団が含まれていた。合唱団は演劇、朗読、歌唱を伴う定期的な公演を企画し、これらは非常に人気があった。アコーディオンやギターの伴奏に乗せた歌は、スタッフや患者たちの愛国心を呼び起こし、自由と平和のために戦う決意を強めた。➂」
2014年には、フランヤ・パルチザン病院に「統合された欧州の価値観体系の頂点に位置する人間性、連帯、寛容、統合、異文化間対話を象徴する」「欧州遺産ラベル」が授与された。また、UNESCOの世界文化遺産の「暫定リスト」に載っている(2026年4月時点)。ただ、残念ながら、それまで保存して来た建物群は、2007年に1回洪水で破損し、その後復旧したが、2023年8月の大規模な嵐・洪水で再び損傷 し、閉鎖措置がとられている(同時点)。

© OpenStreetMap contributors 写真はいずれもWikimediaのパブリックドメイン
パルチザン人形劇
パルチザン人形劇は、1944年大晦日にチュルモシュニツェ消防署で初公演が行われた。
初公演は大人向けの7つの短編劇で構成されたが、後に子ども向けの正式な4幕劇『ユルチェクと三人の泥棒』が制作され、1945年1月に初演された。操り人形によるものであった。登場する人形には、ヒトラー、SS隊員、ファシスト、白衛兵、リリー・マルレーンなどもいて、風刺されていた。戦時下の物資不足の中、連合国軍の青いパラシュート布や段ボールを用いた舞台装置が特徴で、パルチザン文化の創造性と精神力を象徴する活動となった④。

左がユルチェク、右がパルチザン兵(国立近現代史博物館の展示より)
戦場のリアルな証言
パルチザン兵士の証言集の、『Boj pri Jančah nad Litijo (Izpominov) 』『リティヤ上方ヤンチェの戦い(回想より)』(PDF)のLadislav Grad ラディスラヴ・グラッドの証言がたいへんリアルである。
最初にこの戦いの意味についてまず記す。イタリア占領下で活動していたパルチザンは、ドイツ占領下のパルチザンの強化を図った。5月中旬には、リュブリャナの東部のイタリア占領下でパルチザン活動をしていた5大隊が、ドイツ軍占領下へ、サヴァ川を渡って進出し、解放地域を拡大し、現地のグループと連携して北部戦線を形成する作戦を実行した。夜間の徹夜での山岳・谷あいの行軍を開始した。しかし、道に迷ったため、休憩していたJančeヤンチェ(リュブリャナから東へ13~15kmの丘陵地帯)の山腹または山頂の平地、森林で、5月21日の正午ころから、ドイツ軍(または警察隊)の襲撃を受け、激しく戦ったのち、元の拠点に戻らざるを得なくなった。ヤンチェの戦いと言われている。この戦闘でパルチザン側は11名の戦死と11名の負傷を出したが、ドイツ側の損害も70名の戦死と同数程度の負傷と推定された。ヤンチェでの戦闘によって、ドイツ軍はこのパルチザンの進出を阻止したものの、戦闘自体では大きな痛手を受け、その結果は住民の間で大きな励みとなった⑤。以下、ラディスラヴ・グラッドの証言より。これはスロヴェニア語で書かれたものである。
○起伏の多い山道を大人数で行軍するとき、前方の兵たちが山道を上り始めると、後の部隊が詰まってずっと止まらざるを得ず、逆に前方の部隊が平地を進むときは、後方の山道を上って来た部隊は走って追いつかねばならず苦労したこと
○初めてドイツ兵士たちを遠くから見たときは、最強の訓練された兵だと思って緊張したこと。こちらは「見習い、使用人、農民、労働者、職人などつい最近まで武器の扱いをまったく知らなかった者たち」の集まりであること、司令官の出自も「シシュカは労働者、ズドラフコは機械工の見習い、シモンは煙突掃除人、リストは農家の息子」だ、とつい思ってしまったこと
○ドイツ側は偵察飛行機、装甲車など兵器に優れていたこと。何回も襲撃されたこと
○友人の兵士と「今日は生き残れないだろう」と語り合ったこと。「心の中で、なぜ自分だけがこんな不運に見舞われるのか、と静かに呪ったこと。今日、誰かが犠牲になるなら、それは間違いなく私だ。」と考えたこと
○ドイツ軍の指揮官は「Vorwärts」(フォアヴァルツ「前へ」「前進せよ」)とか、「Noch zwei Stunden, undalle Banditen sind kaput」(あと2時間で、すべてのパルチザンは片付く)と叫びながら兵士たちを鼓舞していたこと。パルチザン側はドイツ兵を「※švarzloze(シュヴァルズロゼ)」(※黒いズボンを履いた者 = 特に親衛隊兵士を指す蔑称 私注)で罵ったこと
○最初に機関銃で茂みに隠れていたドイツ兵を夢中で撃ったら「そのブーツを履いた足が突然、高く飛び上がるのを見た。ドイツ兵は宙返りをし、仰向けに倒れ、ヘルメットが頭から飛んだ。」という風だったこと
○機関銃での激しい銃撃戦が続くかと思うと不思議な静寂の時間が来て、またすぐ激しい銃撃戦になる、という繰り返しだということ
○戦いのさなかに、パルチザンは一斉に※「Vintvaška bej」(ヴィントヴァシュカベイ)という歌(※スロヴェニアパルチザンの歌にある「我らの中隊、戦いへ」か? 私注)を歌ったこと
○倒したドイツ司令官が落としたブリーフケースを仲間の一人が取り上げ、中に入っている物を見て、パルチザンの動きが読まれ、前方を封鎖されていることが判明し、これにより元の拠点に戻ることが決定されたこと
○戦いの終わった戦場は「草原全体が、緑色の軍服を着た死体で覆われている。その色は、春の草の色と溶け合っている。この緑色の背景には、大きな血の跡が映し出され、暖かい午後の太陽の下で蒸発し、鋭い火薬の臭いと混ざって、肺を圧迫し、神経を苛立たせる不快な臭いを放っていた」という状況だったこと
○戦いの最中やその後も、ドイツ兵の死体が散らばっている夢を見て何回もうなされたこと
○撤退路では、負傷した兵士を背負って、山道は四つん這いになって上ったが、3日間も食糧が無く、体力の限界に近づき、心の中で負傷者、自分自身、ドイツ軍、戦争、そしてすべてを呪ったこと
○やっと無事元の拠点に帰還できたときは食べることよりとにかく眠ったこと
○拠点に帰ったとき初めて女性パルチザン兵を見たこと
など大変リアルに戦争に従軍した様子が話されている。
女性パルチザン(上の証言とは関係ない人々です) (パブリックドメイン)
①Miroslav Luštek 「Nekaj zunanjih znakov partizanstva(パルチザンの外見的徴表について)」『Letopis Muzeja narodne osvoboditve LRS』 (スロヴェニア人民共和国民族解放博物館の年報) 1958年 p.p..9-12 これに続いて、トリグラウカは2つの型の変遷を経て、私が写真で示した、博物館展示のものとなって定着した、と詳しく書かれている。
②『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』(スロベニアにおける国民解放戦争 1941–1945) Zdravko Klanjšček(ズドラヴコ・クラニシェク)著 1984年 Vojnoistorijski institut(軍事歴史研究所、ベオグラード)p.56
➂「Franja Partisan Hospital A monument of humanity」 https://www.pb-franja.si/en/?utm_source=copilot.com というフランヤ病院のサイトより
④サイト「PUPPETS」 https://partisantheatre.agrft.uni-lj.si/index.php/puppets/より⑤『Narodnooslobodilački rat u Sloveniji 1941–1945』p.125