阮朝による越南(ベトナム)誕生


阮王朝=越南誕生
 1792年、西山阮氏の阮文恵は突然の病気で39歳の生涯を閉じた。後を継いだのはその子の10歳の阮光纉(グエン・クァン・チャット)であった。翌93年には阮光纉は伯父の阮文岳の支配地の今帰仁を奪い、阮文岳は失意のうちにその年、死去した。このように西山朝は内部の対立が明るみに出てきた。
 逃れていた広南阮氏の阮福映は、1788年柴棍(現ホーチミン)を奪回するなど南部に勢力を拡大した。阮文侶は逃げ出し、この後、失意のうちに死亡した。阮福映は、知り合っていた、ベトナムへの宣教に来ていたフランス人の司教ピニョー(Pierre Joseph Georges Pigneau)を通じて、時のルイ16世に、自分がベトナムの支配者となった暁にはダナンとコンダオ島の領有権・主権を譲渡すること、カトリック布教の自由などという条件でフランス軍のベトナム派遣を要請した。しかし、ルイ自身がフランス革命でギロチン台の露と消えたため、司教は自ら資金調達し、武器を買い集め、義勇兵を集めた。阮福映は自らもポルトガルから鉄砲2,000丁などを購入、フランスに戦闘船100余隻を作らせ、さらにタイ水軍2万人なども味方にして準備した。
  
(左)阮福映=嘉隆帝  (右)ピニョー (ともにパブリックドメイン)
 その上で、阮福映は1799年から司教と大軍を引き連れてクイニョン城を占領。以後、抵抗する西山軍と激しく戦い、1801年広南、ホイアン、ダナンを制圧、フゥスアンに入ると阮光纉は逃げ出した。阮福映は阮文恵の墓をあばき、その遺体の首を柱に曝した。1802年にはフエで皇帝即位の礼を行い、年号を嘉隆(ジャロン)と改めた。そして、ついに1802年、昇龍を占領して、阮光纉と一族を捕らえ、残虐を極めた報復を行った。阮福映は清に使いを送って封冊を請い、清は1804年越南(ベトナム)国王の名を与えた。現在のベトナムの国名はここに由来している。こうして黎朝衰退・莫朝との南北朝対立以降長く続いた戦乱は終わり、ベトナム史上初の、現在の北部、中部、南部の全土を統一した国家、阮王朝と「ベトナム」の名が誕生したのである。ただし、それはベトナム史上最後の王朝となる。
 嘉隆帝(阮福映)はフエを首都とし、中国紫禁城を模した壮大な宮殿を建て、それまで支援を受けるため臣従していたタイと対等な関係を求め、他方、カンボジアやラオ人を朝貢国として扱い、また、このような国々に対してだけでなく、西洋諸国にも中国皇帝と対等な「皇帝」と名乗った。このような、ベトナムの態度は李朝から始まり、その説明として「外王内帝」と歴史学で言うことは指摘した。また、戦争で協力してくれた外国人を重臣としてとりたてた。官僚制度は中国をモデルとして科挙制度を維持し、軍事面ではフランスから導入した大砲や船舶も残したが、それ以上に積極的に活用はしなかった。
 フエ王宮は、このように嘉隆帝が建築を命じ、第2代明命(ミンマン)帝が拡張して現在の規模になった。ベトナム最初の世界文化遺産である。
 フエは前に川(香河)、後に山のある、風水で理想的な場所で、王朝の安定を図った。 中国紫禁城と同様、午門(入口)-太和(タイホア)殿(即位式など重要な儀式などを行う正殿)-紫禁城(皇帝の私的生活空間)を中心ラインとしている。これは、外側から内側に進むにしたがって、より身分の高い者しか入れない、という儒教的秩序を空間で示したものである。

  

1932年撮影の写真、案内地図、模型で在りし日の王宮の全体図を示している。フランスやアメリカとの戦争による破壊で、現在、建設当初にあった紫禁城部分がほぼ皆無状態である。


午門。真ん中の黄色い部分は皇帝のみが通れた。前面は王宮全体を囲む堀と塀になっている。塀には戦争で破壊された跡が生々しい。向かって右が文官用、左が武官用。門の上には五鳳凰楼という当時金箔を貼った望楼がある。左右の階段から上に上れる。

  



2025年12月現在、この五鳳凰楼の中には、昼間の時刻を知らせた太鼓と、夜の時刻を知らせた鐘、明命帝の金印のレプリカなどが展示されている。




太和殿

 

内部の玉座の様子。赤い漆と金で再建された



太和殿の南側には、儀式を行うとき位に応じて文武の役人が並ぶ位置が石で示された「儀式の中庭」がある。北極星に擬せられ、南面する皇帝から見て、文官は左(東)、武官は右(西)となるのが儒教的秩序。


 

王宮建設時の紫禁城(皇帝の私生活部分)は一部の回廊のみしか残っていない。ちなみに、貸衣装で王族の扮装をして観光している人々が多かった。皇帝などの扮装をしての記念写真もある。


フエ王宮の北端には、王宮の中心軸上に、紫禁城の一部をなす、第12代皇帝カイディン帝と13代バオダイ帝の執務所兼住居の建忠(キエンチュン)殿がある。左右のバルコニーやアーチ型窓などヨーロッパの建築スタイルを龍などの伝統デザインと折衷している。





内装、家具も西欧風である。


 1820年、嘉隆帝の子で第2代皇帝明命帝となった阮福膽(グエン・フック・ダム)は、彼が第二夫人の子だとして即位に反対した大臣のレ・バン・ズエットの墓(1828年死去)に、100回の「鞭打ちの刑」を実施し、後にはこの墓を破壊した。彼は儒学を修めたことから、父とは異なり西洋諸国に憎悪にも似た反感を持つに至り、フランスとの貿易条約の締結を拒否し、キリスト教の信仰、布教の禁止令(違反者は死刑)を出し、鎖国政策をとった。外国勢力の来航と交渉をダナンのみに限ったのは、江戸時代の日本の鎖国政策・長崎出島の制度に似ている。さらに10隻の艦隊を整備し、中部の沿岸に砲台を設けた。当時、イギリスの支援を受けたタイやカンボジアがベトナムへの侵攻のチャンスを狙っていたことに対応した措置だった。
  
(左)明命帝   (右)嗣徳帝 (ともにパブリックドメイン)