再びの中国支配を脱して新たな王朝成立も混乱期へ
---明の排撃と黎朝成立、その下での混乱期、西山朝成立と清の排撃
胡朝による陳朝の打倒
モンゴル・元軍の侵攻から国を守った陳朝だったが、王族内の近親結婚を繰り返したため、この後、王族からは優れた人物が現れず、第10代皇帝・陳曔(チャン・キン 睿宗)が対チャンパ戦争で戦死するなど、その権威は落ち、官僚同士の争い、腐敗が激しくなってしまった。対照的に、娘を第12代皇帝陳顒(チャン・ングン 順宗じゅんそう)の皇后とした、胡季犛(ホー・クイ・リ)が大きな権力を握って、後に順宗を殺すなどして、ついに自らが皇帝となり、1400年、胡朝を開いた。彼は反対勢力の陳一族や官僚らを300人殺した。さらに都を昇龍から、朱子学の「風水」の理念による最適地、清化(現タインホア)に移し、新たな地方制度を作り、また地方官の報告義務を強化するなど、旧官僚政治の否定に努めた。
この胡朝の城塞は現在一部が残っており、新たな原理に基づいてつくられた城塞として世界文化遺産になっている。ユネスコのサイトによる説明は
https://whc.unesco.org/en/list/1358?utm_source=copilot.com
風水(ふうすい)の考えによると、山と山を結ぶ線の中心に建物を置くと国家が安定すると考えられ、また、川に潤される地形は最良とされる。胡城はこれを満たす地に建てられた。また胡王朝が、「理」に基づく秩序を重視する朱子学を重視したことも、この城塞の場所が選ばれたことと関連する。詳しくは「風水」「朱子学」を参照のこと。
中国による再度のベトナム支配
しかし、このころ中国を支配していた明は、この王朝交代を好機到来と見て、「陳朝を簒奪した胡朝を討つ」として大軍を送り込んで来た。人心がまだ胡朝を支持してなかったため、元に対抗したような大きなゲリラ戦は起こらず、軍の中から投降する者も相次ぎ、1407年、胡季犛は捕らえられ、金陵(現南京)で処刑された。この年以降、約500年ぶりに中国による直接支配が行われることになった。
黎朝による再度の独立獲得と儒教の重視策
明の支配は、重税と衣服などの漢民族文化の押し付けであり、人々は支配にあえいだ。1418年から山地のゲリラ活動で明に対抗した、土豪の黎利(レ・ロイ)は、次第に多くの兵を集めるようになり、10年後の1428年に明との戦いに勝利し、彼らが降伏したので、無事に陸と海から明軍を帰してやった。黎利はその後、明に貢物を贈り、正式な王朝として黎王朝(以前の10世紀の黎朝と区別するため後黎朝=「こうれいちょう」ともいう)を認めさせた。28年ぶりにベトナム人は中国からの独立を再度果たしたのである。伝説では、黎利が昇龍のホアンキエム湖で現れた大亀から明を討つ剣を与えられ、それが勝利につながったので、戦いが終わってから彼はその亀に剣を感謝して返したという。この亀に剣を返したという場所は、今もホアンキエム湖に祀られている。そもそも還劍(ホアン・キエム)湖という名前もこれに由来する。

ベトナム名物の水上人形劇の演目の1つに「レ・ロイ王が剣を帰す」がある。

ホアンキエム湖の亀の塔
黎朝は、山地出身の武人が中心となって作った国だったため、平野の文人の支持も得るため、当初の歴代皇帝たちは、儒教を重んじる姿勢をとり、特に、第5代皇帝黎思誠(レ・トゥ・タイン)(「黎聖宗」レ・タイントンとも呼ばれる 在位1460-97年)は、儒教中心の試験である科挙を3年に1回定期的に実施する方針を定め、この科挙合格者を官僚に多数登用した。これは身分に関わらず、才能ある者(試験がよくできるという才能だが)が政治に関われる道を大きく開いたということである。

文廟の入り口付近には、1442年からの歴代の科挙の合格者名を刻んだ石碑が、その名が亀の寿命のように永く残るように、と亀の上に置かれている。ユネスコの世界の記憶遺産となるまでは野ざらしだったため、名前が摩耗している
1474年、レー・タイン・トンは、李朝が打撃を与えたチャンパ王国の勢力が復活しつつあったので、遠征し、最終的ともいえる打撃を与え、約6万人を殺し、3万人を捕虜とした。
このように勢いのあった黎朝だったが、第8代皇帝以降、政治が圧倒的に乱れ、軍司令官だった莫登庸(マック・ダン・ズン)が帝位を奪い莫朝を作る。しかし、これに反発した黎朝の旧臣、阮淦(グエン・キム)、阮潢(グエン・ホアン)親子、阮淦の義理の息子の鄭検(チン・キエム)、鄭松(チン・トゥン)親子らが、黎一族の者を皇帝に立て、莫朝と争った。莫朝の力が弱まると、今度は鄭氏と阮氏が形ばかりの黎朝の下で抗争した。この分裂状況の中で、中部の西山(タイソン)出身の、、阮文岳(グエン・ヴァン・ニャック)、阮文侶(グエン・ヴァン・ルゥ)、阮文恵(グエン・ヴァン・フエ)の三兄弟が農民勢力の力を得て、各実力者と黎朝を滅ぼし、新たに全ベトナムを統一し、打倒されそうになった黎氏が救援を求めたため侵攻して来た清軍を排撃した。以上の混乱は莫朝成立の1528年に始まり、1789年の黎朝崩壊までの出来事である。たいへんややこしいので、下に単純化した権力の変遷図を載せるので参考にしてほしい。また、少し詳しく経過を知りたい人はその次の説明文を読んでほしい。

〈詳しい説明〉黎朝第8代皇帝黎誼(レ・ギ)(在位1505-10年)は、毎日近親たちと宴会を開いて酔っ払い、即位に反対した祖母や黎一族の者、気に入らない家臣を次々と殺し、政治を乱した。ベトナムの中学校歴史教科書は「夜な夜な側室と共に過度な酒をあおり、酔っては側室を殺した。」(『ベトナムの歴史--ベトナム中学校歴史教科書』p.253 2008年 明石書店)と書いている。従兄弟の黎瀠(レ・オアン)が民衆の反乱に乗じて挙兵すると、皇帝の周りには誰もいなくなり、皇后は首を吊って自殺、皇帝は毒を飲んで死んだ。この黎濬は、父母兄弟を黎誼に殺されていたため、その恨みから黎誼の死体を大砲で爆破した。そして第9代皇帝(在位1509-16)となった。しかし、彼もまた船遊びや酒宴を催し各地で反乱を招き、家臣から刺殺された。
このように皇帝の悪政続き、将軍たちの争いで混乱が深まる中で、権力を握っていったのが軍総司令官だった莫登庸(マック・ダン・ズン)である。第11代皇帝黎椅(レ・イー)に、強力になった将軍たちを殺すようにしむける方法をとったため、あまりの暴虐に皇帝も将軍たちも逃げて行った。莫は黎椅の弟の黎椿(レ・スァン)を第12代皇帝とし、前皇帝に従った者たちを捕らえてことごとく殺し、さらに前皇帝を地方の王に降格した後、家臣に暗殺させた。その上で、1527年、莫は黎椿に迫って皇帝の位を譲らせ、黎椿と皇太后を幽閉した後、強要して自害させた。
こうして、いったん黎朝は滅び、莫朝が成立した。黎朝に功績のあった部下たちは皆逃げた。現ラオス領にあったラーンサーン王国に逃げた、黎朝の旧臣阮淦(グエン・キム)はラーンサーン王国の力を借りて勢力を拡大し、使者を各地に派遣して、ついに黎椅の弟、黎寧(レ・ニン)を見つけ、1532年、ラーンサーン王国で荘宗(しょうそう)として即位させ、後に西化(現タインホア市)を拠点に、莫朝に対して黎朝として対抗した。こうしてベトナムには、昇龍中心の莫朝と、西化以南の南朝、という二つの朝廷が対立する南北朝時代となった。

莫朝関連の史跡がなかなか無い中で、ハイフォンの博物館で莫朝時代のものとして展示されていた。他の王朝と同様、このような焼き物が作られていた。
1543年から南朝(黎朝)は、総司令官阮淦の下、北朝(莫朝)に戦いを挑み、優勢だったが、1545年、阮淦は、北朝の策略で下って来た者に食事に毒を盛られて殺された。荘宗は後任の司令官に阮淦の義理の息子、鄭検(チン・キエム)を任じたが、阮淦の子供の阮潢(グエン・ホアン)は、身の危険を感じ、自ら「中部の順化(現フエ)に出没する莫氏の勢力を鎮圧したい」として順化に移った。
鄭検の子、鄭松(チン・トゥン)は西化を拠点に莫朝に戦いを挑み、阮潢も水軍で加勢して、ついに1592年昇龍城を陥落させ、93年には昇龍城に荘宗の甥の子で黎朝中興第4代の黎維潭(レ・ズイ・ダム 世宗せいそう)を迎えた。敗れた莫朝は、中国の支援を受けつつ中国との国境の北部の高平(カオバン)を拠点に存続したが、1677年最後の敗戦により滅んだ。
この後、鄭松は1599年に「王」を名乗り、皇帝の宮殿の近くに王府を設置し、その中で役人が政務を行ったため、皇帝や朝廷は実権を失った。
これに対し、阮潢は黎朝から「端国公(たんこくこう)」という、王に次ぐ地位をもらったが、現フエを中心に、朝廷に納税せず、ベトナム中南部に半独立国のように勢力を伸ばし、鄭らの政権と対峙し、鄭らの軍が攻めてきたのも追い返した。やがてその子孫は人々から「広南阮主(こうなんグエンチュア」と呼ばれるようになり。また外国からは、その支配領域を「広南国」と言われた。彼らは、現ホイアンの港にポルトガル人を招いて鉄砲などを買い付けたり、日本人とも交易してそこに「日本町」を作ることを認めた。17世紀末からは、海禁政策を中国(清)が止めたため、多数の中国商人も来航した。
ホイアンの日本橋や世界遺産としての美しい景色については私のサイト→世界遺産ホイアンの煌めく美しい夜景を見てください。
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こうして、名目上は後黎朝が続いていたが、事実上は「鄭阮戦争」とも言われた二つの実力者が対峙する、二つの国のような状態がしばらく続いた。ヨーロッパ人は、それぞれの支配領域を二つの国、すなわち鄭氏の国は「トンキン国」、阮氏の国は「コーチシナ国」と呼んで区別した。
両国とも、官僚が腐敗し、農民が災害で飢饉となっても対策を取らずに過ごしていった。
1771年、西山(タイソン)で、広南国の阮氏一族ではない、阮文岳(グエン・ヴァン・ニャック)、阮文恵(グエン・ヴァン・フエ)、阮文侶(グエン・ヴァン・ルゥ)の三兄弟が、広南国の支配者阮氏に対し、「貧しい農民の味方」の立場を掲げ、反乱を起こした。この反乱に、交易のために支配者の広南阮氏から森林資源へ課税を強化され苦しんでいた山岳民も支援した。西山阮三兄弟は、当初、鄭氏政権には恭順の意を示しその攻撃の心配を無くしてから、広南阮氏との戦いを優勢に進め、1776年、阮文恵の軍が嘉定(現ホーチミン)まで追いやった広南阮氏一族を攻撃し、ほぼ全員を殺したり捕虜としたが、船に乗ってメコンデルタに逃げた、9歳だった阮福映(グエン・フック・アイン)だけは捕り逃した。阮福映はタイ王朝に頼ってタイ軍とともに南部に進攻するが、1785年阮文恵に打ち負かされ敗走した。阮文恵は、転じて北進し、1786年鄭氏を昇龍から追った。同年、阮文岳は皇帝を名乗りクイニョンに、阮文恵は北平王としてフエに、阮文侶は南定王として嘉定に、と別れて三兄弟がベトナムを支配した。後黎朝の黎昭統(レ・チュウ・トン)皇帝は昇龍に据え置かれたが、その地位が危ういと見るや、1788年、清に救援を求めた。清は応じて20万の兵でベトナムに侵攻し、昇龍に入場したが、この当時紅河デルタでは飢饉にみまわれていたため、清軍は略奪をはたらき、黎皇帝も民衆の支持を失った。この状況を知った阮文恵は、自ら「光中帝」と名乗り、1789年1月、昇龍城外のドンダで、新年の祝いで油断していた清軍を打ち破り、黎昭統帝も清に逃れて、後黎朝は滅んだ。

ホーチミン市歴史博物館には、象部隊で清軍を急襲して勝利したこの戦いの様子がジオラマで示されている。
ここのあたりのドンダーの戦いで清軍3万人を敗北させた阮恵=光中帝の巨大な像と廟、戦いのレリーフが建てられている。

阮恵=光中帝の像と廟

象に乗って全軍を指揮した阮恵=光中帝とドンダーの戦いのレリーフ

光中帝の軍旗の黄色い円は「太陽=天命」を表し、赤い地は「戦いと革命」を象徴していた。垣間見た光中帝像。

光中帝像から見て左側の樹木の茂ったところに、このドンダーの戦いで亡くなった兵士たちの塚がある。
https://godongda.vn/en/ のサイトには、英語だが、この地の戦いや塚などについての詳しい説明が動画付きで見られる。