新ユーゴスラビア連邦の中のスロヴェニア
---トリエステでは一苦労。カリスマチトーの受け入れ。
1945年3月に、チトーを首班とし、亡命政権代表3名を含むユーゴスラビアの臨時政府が成立していた。5月にユーゴ軍の力も借りて解放されたスロヴェニアは、この新ユーゴスラヴィアの一員となった。この新ユーゴは、1945年11月11日の選挙で共産党が指導する人民戦線が全投票の90%を獲得し、11月29日に召集された憲法制定会議で、君主制の廃止とユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立を宣言した(小山洋司『スロヴェニア』 群像社ユーラシア文庫8 p.37-38より) ただし、この選挙は立候補者がチトー率いる共産党主導の人民戦線 のみで反対派は立候補できず、投票は「人民戦線に賛成か反対か」で、反対票を投じるには「特別な箱」に入れる必要があり、事実上の圧力があった、というものだった。この新ユーゴスラビアの領土は、旧王国時代の領土に加えて、1947年のイタリアとの平和条約により、イタリア領だった、コバリド、トルミンを含むプリモルスカ地方をスロヴェニアに、イストラ半島やその近辺のリエカやアドリア海のいくつかの島々をクロアチアに加えて拡大した。大戦の最終盤に解放勢力が占領していたことが大きかった。しかし、拡大を狙ったオーストリア南部のコロシュカ地方については、西側連合国の反対に遭い断念し、さらに5月初めにニュージーランド軍と共同占領していた、重要な港町トリエステについて、共産党政権のユーゴスラビア領にしたくなかった西側連合国と対立した。

これは下記のトリエステBゾーンも含めた現在のスロヴェニア領土
そこで、国際連合安全保障理事会が1947年に、トリエステを「自由地域」とし、その独立と領域の保全を安全保障理事会が保証するという「決議16」を採択し、これは既述のイタリアとの平和条約にも付属文書としてもりこまれた。しかし、この決議の中に規定された、国連が任命する、トリエステの権力を持つ「総督」を結局置くことができなかったため、国連統治は実現せず、1954年、1954年の「トリエステ自由地域に関する覚書(ロンドン覚書)」が関係国で結ばれて、それまで事実上統治していた事実に基づき、トリエステは2つのゾーンに分割され、イタリアとユーゴスラビアが、それぞれ下の地図のように、以下の地域に民間行政を敷いた:
ゾーンA(英米軍が統治していた地域。地図中の薄緑色の斜め線の地域。トリエステの都市部分、港湾部分を含む)→ イタリアが行政を担当
ゾーンB(ユーゴスラビア軍が統治していた地域。藤色とピンクの斜め線の地域。南の地域)→ ユーゴスラビア(スロヴェニアとクロアチア)が行政を担当
これが現在の国境の基礎となった。イタリアとユーゴスラビアの国境は、1975年の両国の条約締結により、正式にこの分割、両国への領土編入が確定した。結果として、スロヴェニアは「猫の額」程のものではあるが、現在、Koperコペル、Izolaイゾラ、Piranなどの景勝地を含む海岸部を手に入れることになった。

出典:Wikimedia Commons 作者:〇〇 ライセンス:CC BY-SA 3.0 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Free_Territory_of_Trieste_Map_de.svg
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この画像は CC BY-SA 3.0 に基づいています。
チトーのカリスマ化とスロヴェニア共和国
第二次世界大戦の終結とともに、パルチザンはユーゴスラビア全土をほぼ独力で解放した。この勝利は、チトーと共産党に圧倒的な正統性を与え、戦後国家の政治構造を決定づけた。
1945年11月に成立した新国家「ユーゴスラビア連邦人民共和国」において、チトーは 首相(政府の長) に就任し、同時に ユーゴスラビア人民軍の最高司令官(元帥) の地位を保持した。さらに、戦前から続く 共産党(ユーゴスラビア共産主義者同盟)の最高指導者 としての権限も維持していた。この三つの権力──政府・軍・党──を同時に掌握したことで、チトーは戦後直後のユーゴスラビアにおける 絶対的な最高指導者 となった。この時期は、パルチザンの戦争の正統性がそのまま政治権力に転化した時期であり、チトーのカリスマ性が最も強く発揮された時代であった。1946年に制定された新憲法により、ユーゴスラビアは正式に六つの共和国からなる連邦国家 として再編された。
その一つとして 独自の言語(スロベニア語)、独自の歴史的領域、戦時中の強力なパルチザン組織を持ってきたスロベニア人民共和国 が明確に位置づけられ、戦時中にパルチザンが築いた政治組織(解放戦線・人民委員会など)が、戦後国家の正式な行政機構へと移行した。戦前から、スロヴェニアはユーゴスラビアの中で経済的先進地域であり、またブレッド湖は風光明媚な場所であり、チトーの母がスロヴェニア人だったこともあり、1947年、チトーはブレッド湖畔にあった、ユーゴスラビア王室が所有していたブレッド湖畔の別荘の場所に、新たにVilla Bledを建設し、自らの夏の別荘とした。チトーはここに泊まり、内外の要人を招き、執務を行い、周辺で狩猟を楽しんだりした。2025年時点では、スロヴェニア国家直営ホテルとなって一般の宿泊客を受け入れている。私はチトーの執務室だったという、現在はスイートルームの客室を見せてもらった。残念ながら、チトーの応接室、寝室などがある部屋は宿泊客がいたため見ることが出来なかった。その写真入りレポートついては、
「Vila Bled, hidden pearl of President Tito’s, communist president of Yugoslavia」https://www.communications-unlimited.nl/vila-bled-hidden-pearl-of-president-titos-communist-president-of-yugoslavia/
を見られたし。なお、以下の写真はすべて現地を取材した私の撮影によります。全体の感じとしては、当時のものは改装されて見られないが、最高権力者のものとして特別に豪勢、という印象は受けなかった。当時のスロヴェニアの一般の人の家とは比べようは無いが、全体としてコンパクトで洗練されている感じだった。2025年4月時点でホテルは五つ星ではなく四つ星であった。ただし、チトーは「1974年までに、ユーゴスラビア大統領は32の公邸、ヨット「ガレブ」(カモメ)、大統領専用機ボーイング727、ブルートレインを自由に使えるようになった。」(上記サイトより)ということで、たいへんな権力者だったのである。




チトーが執務したという部屋。部屋自体は改装されているが、机、椅子、デスクランプ、電話機はオリジナルのものだという。
1階には、チトーのためのレセプションホール、映画館を兼ねていたホールが現存する。壁にはスラブコ・ペンゴフが1947年に描いた壁画がある。ユーゴスラヴィアにおける第二次世界大戦の始まりから解放までを描いている。また、奥の壁画は、ユーゴスラビアの「社会主義国家」としてのイメージを描いている。(上記サイトの説明より)


旧ユーゴスラビアの旗に見える黒い四角の穴は、チトーのための映画を映すためのものだった(同サイトより)。
ホテルの敷地内には、プレチェニクが設計したベルヴェデーレ・パビニオンという高さ30mの柱の上に建てられた、現在はカフェになっている建物がある。ここからはブレッド湖の小島と教会がよく見える。ちょっと値段は高いが、ここのブレッド・ケーキは絶品である。


別荘のホールのものが労働者たちを描いているのに対し、こちらのカフェの壁画は農民たちを描いている。
権力者にありがちな行為だが、チトーも各地に自らの像を立てさせた。ユーゴスラビアの共産党とユーゴスラビアの崩壊の中で、スロヴェニアにあった像はほとんど無くなった。調べたらヴェレニェに一つ残っていた。パルチザンの記念碑の広場の脇にある。ただし、これはもっと後の時期に立てられた。