新ユーゴスラビアの七、六、五、四、三、二、一


 1946年1月に、「ユーゴスラビア連邦人民共和国憲法」が制定され、新ユーゴスラビアが誕生した。その新ユーゴスラビアについては、有名だった次の例え話が作られた。
つの国との国境を持ち、つの共和国からなり、つの民族が住み、つの言語を話し、つの宗教を信じ、つの文字を使う。それでも国はつ。」
 七つの国境を接する国とは、接していた国をベージュ色で示した下の地図のように、南西から時計回りに、イタリア(この地図のスロヴェニアの西の地域も)、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアである。
 六つの共和とは、1946年の憲法で規定されたものである。地図の中の、スロヴェニア人民共和国(1963年以降「社会主義共和国」以下の他の共和国も同じ)、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア(ヴォイヴォディナ自治州とコソヴォ自治州を含む)、モンテネグロ、マケドニア。ただし、「六つの共和国」の連邦として成立した背景には、単なる民族分布からだけではなく、チトーの政治的判断があったという見解がある。その代表的な証言として、ザグレブ大学の政治経済学者ドゥシャン・ビランジチが、クロアチアの週刊誌『Globus』(1994年1月28日号)で次のように述べている、と岩田昌征『ユーゴスラヴィア』1994年NTT出版 p.p.67-68)は紹介している。「チトーは三つの新国家と二つの半国家を創造した。マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ツルナゴーラ(モンテネグロ)の三国家、そしてヴォイヴォデイナ、コソヴォの二州だ。・・・※大セルビア・イデオロギー(※旧ユーゴ王国のように、セルビアが中心となってユーゴスラビアを支配しようという考え 私注)をブロックするためだ。」この証言は、戦後ユーゴスラビアの連邦制度が、セルビアの相対的優位を抑制し、多民族国家の均衡を図るための政治的設計であったとする解釈の一つを示している。また、戦争中に、「クロアチア独立国」が国内外の多数のセルビア人を収容所に入れて殺害したという事実、セルビアなどのパルチザンが、捕虜となったクロアチア人らを多数殺害したという事実を、チトー体制が封じ込め、「諸民族の友愛と団結」を無理にうたったものだとも言われている。この民族間の軋轢の抑圧は、1990年代のユーゴスラビア崩壊時の民族間戦争に繋がっていく(詳細は、岩田昌征氏の前掲書に書かれている)。
 五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字については、ややこしいので表1をご覧いただきたい(五つの民族、四つの言語については、加藤雅彦氏著『ユーゴスラヴィア』中公新書p.5による。なお、この表自体の著作権は私にあります)。)
 

 「五つの民族」について理解するために、ユーゴスラビアで「○○人」として示された「民族」の名前と、共和国ごとのその人口分布状況、ユーゴスラビア全体でのその総人口について、下の国勢調査に基づく表2を参考にしていただきたい。
ユーゴスラビアの共和国別人数構成(1981)★   (元統計表はそれぞれ1の位まで細かく記載しているが、単位 1,000として1000人未満部分を切り捨てて示している。したがって各欄を合計しても総数と一致しない。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国連邦統計局「ユーゴスラビア統計年鑑1991p132104-7表「国勢調査による民族別および性別の人口」より一部抜粋。同書p28右欄には「民族的所属に関するデータは、住民自身、または10歳未満の子供の場合は保護者(親)によって自由に表明された民族的帰属に基づくものであり、・・・1981年の調査では15歳未満の子供についても同様である。」と調査方法を説明している。また、「1981年の調査では、彼らは家族(世帯)が居住していた場所の常住住民として記録され、勤務先から日常的に家族の常住地に戻っていたかどうかに関係なく、そのように扱われた。」(同書p28左欄))


 五つの民族というが、この語句は「七、六、五、四・・・」の句の中で数を規定する根拠が唯一恣意的なものであると思う。表1の「主要民族名」はすべて南スラブ系のもので、あくまで「連邦の中に南スラブ系主要民族が五ついた」という一面を取り出したものなのである。
 補足すると、なぜ同じセルビア語を使い、同じ正教徒であるのに(三つの共和国の正教については、最後の方の「三つの宗教」の説明をご覧ください)、セルビア人とモンテネグロ人を分けたのかというと、「民族」の定義の中の重要な要素の一つとして、「言語の共通性」「主要宗教」以外に、「歩んだ歴史についての共通意識」があるからだとしたと思われる。モンテネグロ人に言わせれば「我々は一時的にでもまとまってはトルコの支配を受けず、1916年に第一次大戦でオーストリアに占領されるまでは、ずっと独自の自分たちの支配者の下で『モンテネグロ王国』などとして独立を保ってきた。セルビア人は長い間全体がトルコに支配されていた国の人々で、我々とは違う。」のである。そして、セルビア人とは違う独自の民族としてのその存在を主張し、実際にセルビア王国とは違うモンテネグロ王国を形成してきたという歴史があり、ユーゴスラビア指導部はこの点に着目して「独自のモンテネグロ民族の共和国」を作らせたと考えられる。
 さて、「五民族」の恣意性について私の意見を述べよう。「主要宗教の共通性」を「民族」の不可欠の一要素と考えると、ムスリム(イスラム教徒)は、ボスニア・ヘルツェゴビナに多くいて(ユーゴ全体の全ムスリムの81.5%)、クロアチア語またはセルビア語を話すが、カトリックのクロアチア人、正教のセルビア人とは違う独自のもう一つの民族としてとらえるべきだろう。そしてその人数も、1981年国勢調査では、ボスニア・ヘルツェゴビナだけでも「五つの民族」のうちの人口第4位のマケドニア人約134万人よりも多く、「ユーゴ全体の中の人口第4位の民族」といえる。ただし、クロアチア語を話す人々とセルビア語を話す人々をさらに分けて考えるべきなのだろうが。この他にも、ハンガリー人の比較的多い地域をヴォイヴォディナ自治州、アルバニア人の多い地域をコソヴォ自治州としたように、様々な非スラブ系の民族がいたという事実がある。特にアルバニア人は、同調査で約173万人であり、「五つの民族」のマケドニア人やモンテネグロ人よりも多く、決して「少数民族」では無かった。このように、「五つの民族」というのは、あくまでこの「七、六、五、四・・・」の語呂合わせを作るためのものだったと考えられる。
 私たち日本人には遠い国の人たちのため、それぞれのイメージが湧きにくいと思うので、次にそれぞれの民族の主要な衣装の写真を示し、理解の一助としたい。一部を除いてユーゴスラビア時代の写真は載せていないが、私が1080年代にこの国に興味をもって調べたときの衣装と変わっていないと判断し、載せた次第である。ずっと後の方に掲げる、1984年のサラエボ冬季オリンピック開会式での、ユーゴ各地の民族衣装を着た人々の写真はそれを決定的に裏付けている。もちろん、民族衣装だけで「民族」をイメージすることには、長短があろう。また、それぞれの「民族衣装」といっても、日本人女性の「着物」のように一つの型では説明できない民族が多い(もちろん「着物」にもいろいろなヴァージョンがあるが、これから紹介する民族衣装の違いに比べれば大した違いではない、ということがお分かりいただけると思う)。主要民族の衣装も、いろいろな地域ごとに別々と言っていいほどの衣装、すなわち、「民俗衣装」があるといってよく、とりわけクロアチアの「民俗衣装」の種類は30を優に越える驚くべきものであり、[派手な色とデザインのエプロンとスカーフを着け、ミニスカートを穿き、長いピンクのソックスを履く人々]と、[黒い長袖の上衣を着て、足元までの長い黒いスカートを穿く人々]とはとても同じ「クロアチア人」と思えないものである。この30以上の様々な衣装の人々の集合体がクロアチア人なのである。インターネットで「クロアチアの民族衣装」を画像検索すると、様々な衣装を着たクロアチア人の集合写真も載せられており、そのことが分かる。
(https://www.croatiaweek.com/wp-content/uploads/2016/05/11391200_857227181031441_2771168300422605949_n.jpg?x83973やhttps://hnv.me/sites/default/files/styles/velika/public/11667331_864244913663001_8946780651904443590_n.jpg?itok=zzXEr_0n など)
私見であるが、クロアチアは、オーストリア支配下だった地方と、ハンガリー支配下だった地方、長い間ベネチアやイタリア支配下にあった地方などから成立したという複雑な歴史的背景があったことが一つの要因であろう。さらに、多くの島々があり、また海岸地方の海岸線もたいへん入り組んでいて、島ごと、沿岸の町ごとに民俗衣装が違っていることも一つの要因であろう。さらに、クロアチア人の居住地域が地図で見るように「逆U字型」の形をしていて、西と東の地域の交流があまり無かった、という地理的背景も在ったためであろう。
 したがって、「各民族の衣装については、下の写真のようなものが全てではない」という前提条件付きで紹介しよう。次の写真の上から順に、スロヴェニア人、クロアチア人、ボスニアのムスリム、セルビア人、コソヴォのアルバニア人、モンテネグロ人、(北)マケドニア人の代表的衣装である。写真の出所を記載していないものはすべて私が現地で撮影したものものである。

スロヴェニア人。この衣装はこの共和国で広く見られるもので、「民族衣装」と言えよう。この衣装については、私のサイト「スロヴェニアの代表的民族衣装について」もご覧ください

m-mikioworld.info/slovnationalcloth.html


次の衣装の数々は、とても同じ民族のものとは思えないが、すべてクロアチア人である。これらだけでなく、全部で30種類以上のたいへん多くの民俗衣装に満ちている。

          ①               ②                  ➂                        ④        

   

                                         ⑤

 

①Susakスサク島のもの。kalceteカルツェテという赤ピンクの長靴下、kamizotiカミゾティという白いミニスカート6枚の重ね着の上に、派手なエプロンtraviealaトラヴィエスラ、派手なスカーフbravaruolaブラヴァルオラを着け、腰の前で留める。(写真は @Alamy Stock Photo)

②ドブロブニク近郊で同空港のあるČilipチリピの伝統衣装を纏った母子(KUD ČILIPI公式サイトより。ご本人および団体の許諾を得て掲載)。既婚女性が被る白い大きな布はPokrivačaポクリヴァチャであるが、未婚女性は平たくて円形の鮮やかな赤い帽子kapaカパを被る。写真の後景にそれを被った二人の女性が見られる。

➂クロアチア共和国首都ザグレブ市のもの(@Alamy Stock Photo)     ④中央クロアチア地方最北部Međimurje地方のもの(筆者撮影)

⑤スラヴォニア地方Gorjaniゴリャニのもの。この女性の衣装と剣をもつ「Spring procession of Ljelje/Kraljice(Queens)from Gorjani」(「ゴリャニ村のリェリェ/クラリツェ(女王たち)による春の行列」)は、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。詳細はこのサイトの一番下に記した。(写真は@Alamy Stock Photo)

⑥ザグレブ南東約35kmのLijevi Dubrovčak リィェヴイ・ドゥブロヴチャクまたはTopoljeトポリェのもの。 ⑦ダルマチア内陸部Vrlikaヴルリカのもの。 ⑧ハンガリーとの国境近くのBaranjaバラニャ地方のもの。  ⑨ダルマチア地方Splitスプリトのもの
➉Bizovacビゾヴァツのもの  ⑥~➉の画像はいずれも@Alamy Stock Photo 

 

 クロアチアの例示した衣装の地域を示す地図(筆者作成)


 ボスニア・ヘルツェゴヴイナのムスリムの衣装(筆者撮影)



  

セルビアの民俗衣装の数々  左も右も筆者撮影。特に右の写真は1982年8月にサラエボのあるホテルでの民俗舞踊ショー見学の時のもの


コソヴォのアルバニア人の衣装  上記シヨーの1コマ


モンテネグロの民族衣装  Image used with permission from People Are Culture. Visit their homepage : https://www.peopleareculture.com/から許可をいただいて掲載

女性の衣装として目立つのは、Koretコレットという薄緑色の袖無しの長い上衣である。「ムスリム以外の緑色の着用を禁じたトルコ帝国の法令に対する意図的な挑発として行われた。」という。(「FolkCostume&Embroidery」  https://folkcostume..blogspot.com/2012/07/costume-of-crna-gora-montenegro-black.html より。これには原出典もいくつか記載されているが、どれにこのことが記載されているのかは不明。ちなみに、このサイトは、バルカン半島、東欧などの多くの地域ごとの衣装について細部まで説明がなされており、写真も豊富に掲載されているたいへん素晴らしいものである。洋裁に精通されている方が運営されていると思われる。)



   

(北)マケドニアの様々な民俗衣装の集団。赤い色をふんだんに使っている者が多い(左。筆者撮影) と(北)マケドニア西部のアルバニアまで30km山あいに住む独自文化グループ(少数民族ミヤク族という考えもある)のGaličnikガリチニク村のもの(右 @Alamy Stock Photo)。

 

 ユーゴスラビアがこれらのきわめて多様な民族衣装、民俗衣装の人々の集合体だということを端的に世界に示したのが、下の1984年2月のサラエボ冬季オリンピック開会式での、オリンピック旗の入場に伴った様々な地域の衣装の人々の姿であった。このときはまだユーゴスラビアが存在していた。どれがどの地方の衣装か、私が推定したのが下の表であるが、ご覧のように、けっこう民族衣装を知っているつもりの私でも分からない地方のものがこの中にいくつもある。

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左の写真はクリックすると拡大できます。

  


 この女性16人(①~⑯)、男性8人(⑰~24)のそれぞれの着ている民族(民俗)衣装について、どこの共和国、自治州、地域のものか。私が探究した結果が下の表である。主要なものは知っているが、そうでないものについては、Googleの画像検索機能や、各国名・衣装などでの検索を行ったりしたが、確定できなかった。サラエボのオリンピック委員会に問い合わせて返事をいただいたが、「資料が残っていないので答えられない」とのこと。確定できないものは、表中に黄色を塗った欄にいくつかの候補を示した。この写真を見て、御存知の方はぜひご連絡いただければ幸いです。

1から16は女性。17から24は男性。

番号

私の地図での色

共和国・自治州名

地域名

典拠など

1

 

Croatia

Zagreb

この衣装は有名。Zagrebの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

2

 

Serbia

 

この衣装は有名。Serbiaの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

3

 

Macedonia

Skopije周辺

https://jp.pinterest.com/pin/77264949829450026/

4

 

Bosna?

krajina辺境地帯?

https://jp.pinterest.com/pin/643803709212520395/

4

 

Bosna?

Donji Vakuf?

https://narodnenosnjesrba.rs/spa/donji-vakuf.html

4

 

Croatia?

Runovići?

https://www.facebook.com/photo?fbid=501049410045261&set=pb.100063653031766.-2207520000

5

 

Croatia

Posavina

Posavinaの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

6

 

Vojvodina?

Novi Sad?

https://northtrotter.com/2022/04/27/novi-sad-and-beyond-13-must-sees-in-and-around-serbias-culture-capital/

7

 

Slovenia?

Ptujの民俗舞踊グループ「自由」?

私が2024Kamnikの民族衣装パレードで見たものとの推測的照合+右の同団体サイトの写真

7

 

またはVojvodina?

Vršac, Banat

https://narodnenosnjesrba.rs/eng/vrsac.html

7

 

またはVojvodina?

Zrenjanin

https://narodnenosnjesrba.rs/spa/zrenjanin.html

7

 

またはCroatia?

Runovići?

https://www.facebook.com/photo?fbid=501049410045261&set=pb.100063653031766.-2207520000

7

 

または別のCroatia?

Dalmacija?

https://en.wikipedia.org/wiki/Croatian_national_costume#/media/File:Nosnje_Dalmacija_EMZ_1300109.jpg

https://www.cilipifolklor.hr/en/media-articles/photo-gallery/29-60-years-anniversary-celebration

https://archiwum.allegro.pl/oferta/chorwacja-konavle-kobieta-folklor-stroje-i10034151477.html

https://repozitorij.dief.eu/a/?pr=i&id=84091

8

 

Bosna

サラエボのすぐ南西Bjelašnica

https://x.com/BosnianHistory/status/1495108520202715136/photo/4

9

 

Bosna

サラエボのセルビア人の衣装

https://narodnenosnjesrba.rs/spa/sarajevsko-polje.html

10

 

Montenegro(Crna Gora)

 

この衣装は有名。Montenegro(Crna Gora)の衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

11

 

Slovenia

 

この衣装は有名。Sloveniaの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

12

 

Bosna i Hercegovina

Muslim

この衣装は有名。Bosna i HercegovinaMuslimの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

13

 

Hungary

Kalocsa カロチャ

この衣装は有名。Kalocsaの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

14

 

Kosovo?

Kuqishtë?

私の前記の1982年のショーの写真とKuqishtë clothesで検索(URLが長すぎるので書き込めない)

15

 

Serbia

南東部Crna Trava

私の前記のセルビア民族衣装の行進の最後尾の女性の衣装(スカーフの色が青で違うが)

https://narodnenosnjesrba.rs/spa/crna-trava.html

16

 

Macedonia

Galichnik

https://www.macedoniancuisine.com/2016/05/macedonian-folk-costumes.html#google_vignetteなど

 

 

 

 

17

 

Slovenia

 

この衣装は有名。Sloveniaの衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

18

 

Bosna i Hercegovina

Muslim

https://jp.pinterest.com/pin/181551428718398527/など

19

 

Montenegro(Crna Gora)

 

この衣装は有名。Montenegro(Crna Gora)の衣装でインターネットを検索すると必ず現れる

20

 

Croatia

Vrlika

https://folkcostume.blogspot.com/2011/10/north-dinaric-womans-costume-of-vrlika.html  など

21

 

Macedonia?

 

Macedoniaの衣装で検索すると一致するものは無いが、黒い長い帽子だけはいくつか現れる

22

 

Kosovo

Kuqishtë

https://accursed-mountains.me/restaurant-guri-i-kuq/と私の前記のショーの写真

23

 

Serbia

セルビア南東部Bosilegrad地方?

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.541039149260319&type=3

24

 

Voivodina(Hungary)?

synthetic?

ハンガリーの男性衣装で検索すると赤いネクタイの衣装のものがいくつか現れるが、ほぼ一致するものが少ない


 四つの言語、二つの文字については、1982年当時国中で出回っていて、私が持ち帰っていた旧ユーゴスラビア国立銀行の紙幣がよく示している。また、紙幣の発行元が「ユーゴスラビア国立銀行」なのは「一つの国」を示している。

 
 さらに、語学素人ながら、様々な文献やサイトを見てちょっとだけ把握した「4つの言語」の特徴の一端を紹介する(以下、例文、単語例やその解説などの文責は、引用部分以外は私にあります)。興味の無い方はとばして下さい。
 スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語とも、インド・ヨーロッパ語族の三大グループの一つのスラブ語派の南スラブ語のグループに属する点は共通である。ただし、スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語は西南スラブ語、マケドニア語は東南スラブ語に分かれる。

 例文として、「私たち(男性の私ともう一人の男性)はその本を読む。」を比較のため、4言語で記すと次のようになる。

 

 ○スロヴェニア語: Midva bereva tisto knjigo. (ミドヴァ ベレヴァ ティスト クニーゴ)

   ※Midva:私たち二人は(男性) bereva:読む(双数・現在形) tisto knjigo:その本を(対格

※このMidvaは二人(二つ)のものを示す「双数」(または両数)というもので、一人や三人以上の主語が来る時とは違う独自の動詞の活用形を取る。「スロベニア語の著しい特徴は両数形・・・の存在である。」(『スロベニア語会話練習帳』山崎 洋・田中一生編 1983年 大学書林p.ⅴ) 「古代印欧語にあった双数・・・。名詞類と動詞に双数形があった。たとえばサンスクリット・・・。古代教会スラヴ語・・・。現代語では、スロヴェニア語やリトアニア語に双数が認められる。・・・大陸の古代ギリシャ語には存続した。」(堀井 令以知「印欧語の双数について」『研究論集 関西外国語大学No.41 1985.1』p.129」

 また、「本を」knijgoは、主語(主格)「本は」になるときはknijgaクニーガ、「本の」となるとき(属格)はknijgehiはクニーゲ、「本に」となるときはknijgiクニーギとなるなど、名詞そのものが「格変化」と言う変化をするのが特徴でもある。そして、「セルビア・クロアチア語やマケドニア語のように発音の通りに書き、書かれた通りに発音するという原則はとられていない。」(山崎・田中『同書』p.ⅶ) 例えば med { mɛd }蜂蜜 ɛは日本語発音「エ」と「ア」の中間  eden { eːden }一つ  eːは 日本語発音「エー」に近い、というように同じeでも発音が違う。


○クロアチア語: Mi dvoje čitamo tu knjigu.(ミ ドヴォイェ チタモ トゥ クニグ)
  Mi dvoje:私たち二人は(男性) čitamo:読む(現在形) tu knjigu:その本を(対格) というふうにこの語も名詞などが格変化する。 「双数」概念は無し

○セルビア語: Ми двоје читамо ту књигу  (ミ ドヴォイェ チタモ トゥ クニグ)
 すなわちクロアチア語とセルビア語は、文字の違い以外は文法や語彙はかなり似ている言語と言える。格変化も同様にある。かつて私がセルビア語、クロアチア語を独習していた時、多くのテキストが「セルボ(セルビア)・クロアチア語」として1冊のテキストで両言語の文法を同じものとして説明していた。また「英語の疑問副詞where にあたるのはセルビア語でгдеグデ、クロアチア語でgdjeグヂェ というふうに、セルビア語の初めの母音eがクロアチア語でjeになるような発音の少しの差がある。」と知ったこともあった。

○マケドニア語: Ние ја читаме книгата.(ニエ ヤ チタメ クニーガタ)
  Ние: 私たちは  ја читамеそれを読んでいる  книгата:その本を
 このja は代名詞の目的形の短形というもので、具体的な定冠詞の付く目的語(книгатаその本)や固有名詞という特定のものが目的語になるとき、動詞の前に必ず来る品詞。逐語訳的に言えば「私たちは それを読んでいる。その本を」となる。英語におきかえるならば、We it read the book.the book が出てくるのに、わざわざその代名詞itを入れるようなものであり、英語にはあり得ない。また、同じja(それ)の長形неа(それ)というものもあり、一つの文の中に一つの代名詞が目的語となるときでも、短形、長形が両方使われる。(例) Ја ја сакам неа. (ヤ・ヤ・サカム・ネア)Ја(私は) ја(彼女を:短形)  сакам(好きだ) неа(彼女を:長形)
 この「同じ文の中に」目的語の代名詞の長形(または特定の名詞・固有名詞)とその代名詞の短形の「両方の形が重複して使われるのが、マケドニア語の特徴である。」(『マケドニア語基礎1500語』p71 中島由美編 大学書林)
 なお、「非常に近い関係にある」ブルガリア語でも、この特徴があるが、それは「マケドニア語が到達したような文法化の程度まで進んでいない。」(管井健太「ブルガリア語及びマケドニア語における目的語の接語重複について」『日本スラヴ人文学会誌 スラヴィアーナ 第5号』p.19 及びp.37)とのことである。なお、この「目的語の短形と長形の重複使用=二重標示」は、ブルガリア語・マケドニア語に限らず、ギリシア語・アルバニア語などにも見られる※バルカン言語連合Balkan Sprachbund バルカン半島に分布する一部の複数の言語が、長い接触の結果として共通の文法的・構造的特徴を持つようになった現象、またはその言語群を指す 私注)の共通現象である。
 またтаは定冠詞だが名詞の後に置かれる。これは他のスラブ系言語のいくつかに見られる。名詞の格変化は無く、これらがマケドニア語を他の3つの言語と区別する特徴となっている。
 

三つの宗教---カトリック、正教、イスラム

左からスロヴェニアのブレッド湖の聖母被昇天教会(カトリック)、ザグレブ゙大聖堂(カトリック)、ベオグラードの聖マルコ教会(正教)、サラエボのモスク(名前は不明)(イスラム) (いずれも筆者撮影)

 

 セルビア正教会はベオグラードに総主教座を置き、モンテネグロ、マケドニアの正教徒に対する宗教的権威を保持していた。モンテネグロでは独自教会の形成は抑えられていたが、マケドニアでは民族意識の高まりから、1967年にマケドニア正教会が独立を宣言した。しかし、これはセルビア正教会にも正教界にも認められず、長く承認されない状態が続いた。北マケドニア正教がセルビア正教会から正式に独立を認められたのは2022年のことであった

①「国家と宗教--ユーゴスラヴィアの例(1918-1991)」 長島大輔 (2007年5月21日 北海道大学スラブ研究センター公開講座 
  https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/open/2007/nagashima.pdf)
②「SOC recognizes the Orthodox Church in North Macedonia」(「KoSSev」2025年5月22日の記事より。ただし、公式の承認日は同年6月5日)

 このような多彩な国となったのには、最初に紹介したチトーの思惑(筆者はその存否については保留です)の他、歴史的背景がある。そもそもこのバルカン半島は、主要なスラブ人が6〜7世紀に移動してきた時点で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国・正教・ギリシャ文字)の勢力圏にあったが、後にカトリックと正教の境界地帯となった。スロヴェニア人とクロアチア人が9世紀にフランク王国の支配下に入り、カトリックに帰依し、ラテン文字を採用したためである。一方、セルビア人などは正教に帰依し、9世紀以降に創案されたグラゴル文字、さらにその後に発明されたキリル文字を用いるようになった。この宗教的・文字的分岐は、バルカン半島における文化的境界としてずっと続いていった。さらに、後にイスラムのオスマントルコが半島南部を支配したことでイスラムに帰依する人々が出たのであった。1919年に、この国の基となった「セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の王国」(SHS王国)は、19世紀後半までオスマントルコ帝国支配下にあってその後独立したセルビア王国(セルビア、マケドニア)や、実質的な独立を保ってきたモンテネグロ王国と、第一次大戦までオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあって独立してなかったスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが合体して作られた王国であった。それぞれの民族は、SHS王国が成立するまで、多彩な独自の文化を保ってきていたのであり、またその後も保っていったのであった。
 今、このような、バラエティに富んだ自然(アルプス山脈、アドリア海、ブレッド湖やオフリド湖などの湖、ドナウ川などの川、バルカン半島の山岳地など)、多民族、多様な文化をもつ一つの国が続いていれば、観光のピーアール材料には事欠かないであろう。おまけに当時のユーゴスラビア連邦は、私がしたように、ビザなしで一定期間自由に旅行ができた。しかし、この国は、異なる民族・宗教・言語が複雑に組み合わさった「寄せ木細工」のような国家であるとともに、同時に、歴史をたどれば、2026年時点の大韓民国と北朝鮮のような国々を連邦にしたようなもので、その構造は「ガラス細工」のように繊細で、わずかな衝突で崩壊しかねない危うさを抱えていたのであった。


 最後に、「ゴルヤニ村の♯リェリェ/クラリツェ(女王たち)による春の行列」(♯リェリェは地元で使われる伝統的な呼び名で儀式全体の担い手のこと。クラリツェはその中でこの写真のように剣を持つ女性のこと 私注)について
 クロアチア国営放送HRT(Hrvatska Radiotelevizija)のサイトによると、
 「これは古くからの習わしで、スラヴォニア地方の・・他の村々でも守られてきましたが、ゴルヤニでは1966年に途絶え、2002年に復活して以来、▲聖霊降臨祭の日(▲キリスト教において、イエスの復活後、弟子たちに聖霊が降ったことを記念する日で復活祭から50日目の日曜日にあてる。 聖霊が降ったとき、弟子たちの頭上に炎のようなものが現れ、弟子たちは突然、自分たちが知らないはずの多くの外国語で語り始めた。その場にいた多くの民族の人々が、自分の母語で弟子たちの言葉を理解できるようになった。すなわち、弟子たちが神の力によって言語の壁を超え、世界中に神の教えを布教できるようになった日とされる。 私注)に毎年行われています。トルコによるゴルヤニ侵攻の時代にまつわる地元の伝説によれば、トルコ軍が村のすべての男性を捕らえた後、村の女性たちは男性の服を着て、男性用の帽子をかぶり、手に鎌や草刈り鎌を持ってトルコの陣営へ向かいました。トルコ兵たちは彼女たちを見て幽霊だと思い込み、恐れて逃げ出し、女性たちは村の男性を解放したのです。現在では、Ljelje(女王たち)は鎌や草刈り鎌の代わりにサーベル(湾曲した剣)を手にし、色とりどりの模様と細部に富んだ独特の民族衣装を身にまとい、頭には高く豪華に飾られた帽子をかぶっています。★今年(★2023年。私注)の春の行列には10人のLjeljeが参加し、村の巡行はゴルヤニの聖ヤコブ使徒教会でのミサから始まりました。Ljeljeは歓迎される客人であり、彼女たちを自宅や庭に迎えることは大きな名誉とされています。彼女たちは、扉を大きく開けて招かれるのです。」

  (https://magazin.hrt.hr/kultura/gorjani-u-proljetnom-ophodu-kraljica-ili-ljelja-10801554)

 なお、ユネスコでは「起源は不明」としている。

   


 


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