阮朝、フランスに屈し三分割支配下へ

  
 フランス支配の始まりと完成
 インド以東のアジアで、イギリス(ミャンマー、マレー、シンガポールを勢力下に収めつつあった)に比べて「進出」の遅れていたフランスは、イギリスの力の及んでないインドシナに目を付けた。1851~52年に、第4代嗣徳帝(しとくてい 阮福洪任 グエン・フック・ホン・ニャム)がフランス人宣教師2人を斬首し、さらに1857年にスペイン人宣教師2人も斬首したことを理由に、フランスはスペインと結び、12隻3,000人の連合軍を送り、1858年ダナンの砲台に砲撃し、海兵隊が上陸した。しかし、ベトナム軍も抵抗したため、1859年南部に攻撃の矛先を転じ、1861年にはついにサイゴン(現ホーチミン)を制圧し、ベトナム軍は敗走した。


 

ダナンの海と阮朝の防御拠点ディエンハイ城跡(現在ダナン博物館となっている。私が訪問した時は、残念ながら台風で一部が破損したとかで休館していた)

 

阮朝の大砲。ダナン防衛戦を指揮したグエン・チ・フォン。

1859年2月17日のフランス・スペイン連合軍のサイゴン城塞襲撃

画像出典:スペインの新聞El Correo de Ultramar(1859年)、Wikimedia Commonsよりり
ライセンス:CC BY 4.0(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)


 1862年、第1次サイゴン条約が結ばれ、ベトナムはフランスに対し、
  ①南部の(東部)三省と現コンソン島の割譲
  ②スペインとともにキリスト教布教の自由
  ➂両国に2,000万フランの賠償金支払い
  ④ダナンとクァンイェンの開港と両国の通商の自由
を認めた。これは屈辱的な植民地への第一歩だった。
 

 

サイゴン港に停泊中の戦艦デュペレ号上で条約が締結された(パブリックドメイン)


 1863年、フランスは、タイからの保護を名目にカンボジア国王ノロドムに保護国条約を結ばせて支配下においた。すると第1次サイゴン条約で得た南部三省が飛び地のようになったため、守備に不安を感じて、間の地域(西部三省)もフランス領とすることを決めた。1867年武力でついにこの三省を制圧し、一方的に併合し、ここにフランスの「コーチシナ植民地」が成立した。この問題の担当だった大臣潘清簡(ファン・タイン・ジャン)は責任を感じ、服毒自殺した。
 こうして、「コーチシナ植民地」とカンボジアを手に入れたフランスは、この地域を通るメコン川を遡って中国雲南に出る交易路を開拓しようとしたが、地形的に無理だということが分かり、代わりに水源が雲南にある紅河デルタの川から遡る方が可能性が高いと見た。1873年8月、フランス人商人ジャン・デュピュイは船3隻でハノイ(阮王朝になって、昇龍から「河内」ハノイと改称)に赴き、紅河を通って、禁制品の武器弾薬や米、専売の塩を運んで雲南に行き、錫を満載して帰り、また塩を積んで行こうとした。ベトナムはこの不法行為をコーチシナ総督府(現統一会堂の場所にあったノロドム宮殿に設置)に訴えたが、調査のため派遣されたMarie Joseph François Garnierマリー・ジョセフ・フランソワ・ガルニエ大尉は、調査するどころか1873年10月いきなりハノイ城を攻撃して1時間で落城させた。さらにガルニエは、200人の兵力で20日間で紅河デルタ地域を征服した。しかし、このとき中国で太平天国の乱が鎮圧されたため、残党狩りを逃れるため、黒旗(こっき)軍という兵を率いてベトナムに来て、阮朝を支持する立場で動いていた劉永福(リュウ・ビン・フック)が、ハノイ城の救援に来て、城外に打って出たガルニエを戦死させた。

   

(左)デュプイ                (右)ガルニエ (ともにパブリックドメイン)


 この後、1874年、フランスとベトナムとの交渉が成立し、第2次サイゴン条約が締結された。
 フランスは、ベトナムに対し、
  ①フランスのコーチシナ6省に対する完全な主権
  ②ハノイなど占領した地域をベトナムに返還すること。代わりに、ハノイ、ハイフォンなどの港と紅河を通商のため開き、各港にフランス領事を置くこと
  ➂雲南に通じる水路を開放すること
  ④フランスの領事裁判権
  ⑤ベトナムの外交政策をフランスに一致させること
などを認めさせた。
 このようなフランスの横暴な態度にベトナム人の抵抗が起き、北部でフランス人が襲われたり、キリスト教徒が迫害された。また、ベトナムを冊封して支配下においていた清にとって、これらの条約は到底認められなかった。ベトナムの要請により、1882年、清はベトナムの北部に次々と進軍して拠点を設けていった。フランスは「フランス人旅行者2人が危険にあった」との理由で、1882年、300人の部隊をハノイに派遣し、突如ハノイ城を攻撃し、王廟まで破壊した。しかし、フランス軍の司令官が戦死したため、フランスは新たにFrançois-Jules Harmandフランソワ・ジュール・アルマンを司令官とし、2,000人の援軍を派遣し、フエも攻撃し占領した。嗣徳帝がこのとき病死し、後継の皇帝を巡って、嗣徳帝が遺言で立てた者と朝廷内の実力者たちの擁立したい者との違いもあって混乱したベトナムは、1883年、第1次フエ条約(アルマン条約)を結ばざるを得なかった。
 この条約で、ベトナムは、「フランスの保護国であることを承認する」ということを押し付けられた。フエを中心とする中部の阮朝支配は残るが、関税や土木についてはフランスの承認を必要とし、またフエにフランス理事官を置く、というもので、事実上、フランスの阮朝への支配が始まった。

 

(上)ハノイを攻撃するフランス軍      (下)フエに上陸するフランス軍  (ともにパブリックドメイン)


  

   (左)フエを攻撃するフランス軍   (右)条約締結の場。真ん中がアルマン  (ともにパブリックドメイン)

 
 ベトナムの宮廷内では、第6代協和帝(阮福洪佚 グエン・フック・ホン・ザット)がフランスに妥協路線をとると見られ、重臣に廃され毒酒で自害させられた。この様な混乱にも乗じて、フランスはベトナム北部を制圧した上で、駐清公使Jules Patenôtre des Noyersジュール・パトノール・デ・ノワイエがフエに来て、第1次フエ条約の改訂を迫り、1884年6月、第2次フエ条約が締結された。これは、ベトナムが
  ①フランスの保護国であることを再確認すること、
  ②ベトナムの外交権はフランス国を代表する総督が行使すること
  ➂ベトナムの官吏はフランス理事官の指揮の下で政務をとり、フランス官憲の請求がある場合は罷免されること
などを認めたものであり、ベトナムは完全に植民地となってしまった。 

  

(左)協和帝     (右)ソワイエ (ともにパブリックドメイン)

 
 フランスは清との関係を改善しようとしたが、清が撤兵要請に応じず、清の広州でもヨーロッパ商人への攻撃が起きた。また、清へ反乱してベトナムに来ていた黒旗軍が清の支持を得て、ベトナム北部で、駐屯するフランス軍と戦い続けていた。フランスは、1983年12月に1万の軍を送り対処した。
 このような情勢の中で、1884年6月、北部のバクレ村を通過中のフランス軍が清軍に奇襲攻撃されたのを受けて、8月、フランスは台湾の石浦湾の砲台を攻撃し、清に宣戦布告した。清仏戦争の始まりである。
 フランスは、8月の福州の沿岸での海戦に勝つなど有利に戦いを進めたが、1885年3月、ベトナムから中国へ進軍しようとして、広西省鎮南関の戦いで清の反撃に遭って手痛い敗北をし、時の内閣が総辞職し、議会が追加の戦費を承認しなかったため、講和に応じることになった。1885年6月、天津条約を締結した。これにより、清はベトナムに対する宗主権を完全に放棄した。フランスのベトナム植民地化はここに完成した。
 

 

(左)福州での海戦  (右)ベトナム・中国国境を進むフランス兵  (ともにパブリックドメイン)

 

天津条約の当時者たち(パブリックドメイン)

  1887年、フランスは、ベトナムを支配しやすいように、三分割の体制をとった。南部はコーチシナ植民地として完全にフランスが直接支配した。北部はトンキン保護領として、阮朝の領域とされ元号も使い、村落の慣習法や自治は維持はされたが、ハノイ駐在のフランス人トンキン理事長官が官僚の人事を決め、フランス軍が駐屯するという、よくて「半独立国」のようなものとなった。中部は、阮朝皇帝の支配地として残ったが、フランス人「駐在官(Resident)」がフエに常駐し、財政・税制・公共事業などを監督し、皇帝がフランスに逆らうと退位させられることもあり、実権はフランスに握られていた。具体的には、1885年、第8代咸宜(かんぎ)帝(阮福明 グエン・フック・ミン)がフランス公使館、軍を襲撃させ、全国にフランスに抵抗するよう檄文を出したが、失敗して逃走し、懸賞金までかけられ逮捕され、退位を強制され、なんとフランス領だったアフリカのアルジェリアまで流刑となった。また、第10代成泰(せいたい)帝(阮福昭 グエン・フック・チエウ)も、フランスに反抗したとして退位させられ、その子第11代維新(いしん)帝(阮福晃 グエン・フック・ホアン)も反乱計画に乗ったとして退位させされ、親子共にアフリカ・マダガスカル島沖のレユニオン島に流刑となった。

     

左より、咸宜帝、成泰帝、維新帝  (いずれもパブリックドメイン)



2024年11月に咸宜帝が配流先のアルジェリアで描いた現地の風景画が、5代目の子孫よりハノイのベトナム美術博物館に寄贈された。


 このフランスの植民地「インドシナ総督府」には、ベトナムだけでなく、すでに保護下に置いていたカンボジアも含み、さらに、ラオスも1893年「保護国」として、インドシナ総督府が支配する「インドシナ連邦」または「フランス領インドシナ」が完成した。私が作ったその支配概観図を下に記す。

   
中国広州湾租借地、ラオス、カンボジアの支配形式は省略した。赤字の役職はフランス人。全体をインドシナ総督が統括。「コーチシナ総督」は無し。その他のフランス人の役職名はいろいろ変わっている。


 ちなみに、ベトナムに関するフランスの統治機関のあった場所は次の通り。

  
インドシナ総督府はハノイの大統領府(左)。 トンキン理事長官邸はハノイの現迎賓館(右)


  
フエの監督官の官邸は王宮のすぐ南にある現フエ師範大学にあり(左)、コーチシナ副総督官邸はかつてのノロドム宮殿(右)(現統一会堂→  私のサイトm-mikioworld.info/touitukaidou.html参照  にあった。


 フランスは、ハノイのタンロン城を古いものとして、排することを厭わなかった。莫朝以来、皇帝の即位、朝賀などの重要な儀式を行ってきた敬天殿を破壊し軍の施設を建てるなど、ほとんどの建物を破壊した。また、紙幣もフランスの発行したものを流通させた。

敬天殿は階段のみを残すだけで建物はすべて破壊されたままである。


ベトナム国立歴史博物館展示

 このような悪いことではなく、今日のベトナムにフランス統治の影響として文化として広まったものがいくつかあると考える。
 一つは現在使われている文字クォックグー(国語)である。その起源は、「イエズス会士アレクサンドル・ド・ロドが1651年に・・・初となるポルトガル語-ベトナム語-ラテン語辞典を刊行した際」で、「目的は当時・・・布教活動を展開しようとする宣教師たちのためのものだった。」「フランスがインドシナ統治を支援する官僚を養成する過程でラテン文字を広めた・・・。」「もう一つの動機は旧文明、この場合は中国との繋がりを断ち切ることであり、それはエリート層に大きな影響を与えていた。」「その採用は新聞や出版の爆発的な増加を促した。」(サイト「France24」の2025.5.25ニュースより)フランスが公文書に使ったことで定着したと言える。これはラテン文字でベトナム語の発音を記すもので、とりわけ6つある声調(声の高さの上がり下がり)を特別な記号で記すものであり、現在どこでも見かける。

 


 二つ目は、ベトナムの食事で生の野菜をよく食べることである。ベトナム人と一緒に食事をすると、必ず生の菜やハーブがかなり山盛りで提供される。人々は肉料理などを手を使ってそれらで巻いて食べる。ずっと影響を受けてきた中国では原則として生のものは食べないので、元々ハーブ好きだったベトナム人が、生野菜を食べるフランスの影響を受けて、レタスなども食べるようになり、このような食習慣が強められたと考えるが、いかがであろうか?
 三つめは、コーヒーをよく飲む習慣が定着したことである。紙ではなく金属製のフィルターで荒く濾すため、濃い目のコーヒーとなる。昔冷蔵技術が無かったことから、暑いベトナムでは生のミルクが確保できなかったため、甘い練乳を加えて飲む独特の飲み方が定着している。

    
(左)このような醤油と砂糖で甘く炒めた肉料理も葉っぱで巻いて食べる。  (右)ベトナム式コーヒー

  

ベトナム史の目次のページへ
ベトナム全体のホームページへ
全体のホームページへ