ホーチミンによる独立の戦いとベトナム民主共和国の建国


(ここの記述は、直接の断りの無い部分は、Encyclopaedia Britannica  https://www.britannica.com/biography/Ho-Chi-Minh  と、
 ベトナム政府公式サイト Vietnam Government Portal  https://vietnam.gov.vn/president-ho-chi-minh-68961 に主に依っています)


 幼名をNguyen Sinh Cungグエン・シン・クン、成人名をグエン・タット・タンといった、後のホー・チ・ミンは、1890年5月19日、ゲアン省ナムダン郡
キムリエン村にて誕生した。


 

 父は愛国的な学者、母は農民であった。姉と兄はともに反仏運動に参加し、植民地政府によって投獄された。

 14歳から18歳にかけて、フエの国学校(高校にあたるが、フランス語を教え、官吏養成を行う最上級学校)で学ぶ。

 1911年、バという名でフランス船の調理人として職を得て、3年以上にわたり船員として働き、アフリカの様々な港やボストン、ニューヨークを訪れ、1915年から1917年までロンドンに滞在した後、フランスに移り、庭師、清掃員、給仕、写真修正工、ボイラー焚き人として次々と職を転々とし、働いた。

 フランス滞在の6年間(1917~23年)に、彼は「グエン・アイ・クオック(愛国者グエン)」の名で、現地在住のベトナム人グループを組織し、1919年には第一次世界大戦を終結させたヴェルサイユ平和会議に出席した列強代表団に対し、8項目の請願書を提出した。この請願書において、ホーは、戦勝国に希望を託し、とりわけフランス植民地当局に対し、インドシナの被支配民に政治犯の恩赦、司法制度の民主化、報道・言論の自由、結社・集会の自由、海外渡航の自由、ベトナム人の教育の自由、フランス議会への選出された代表の派遣など、当然の権利を要求し、これを慈悲としてフランスが与えるならばベトナム人はフランスの支配下にあることを讃えるだろう、と述べている。しかし、この行動は会議参加者たちからは何の反応も引き出せなかったが、政治意識の高い多くのベトナム人にとって彼を英雄たらしめた。この後、ロシアにおける革命の成功とレーニンの反帝国主義思想に触発され、1920年12月にフランス共産党に加わった。

 

(左)1921年のホー・チ・ミン  (右)ベルサイユ会議にグエン・アイ・コック(ホー・チ・ミン)が提出した「請願書」。(パブリックドメイン扱い)


 

 1924年12月、ホーは偽名リ・トゥイを名乗り、共産主義の拠点である広州(カントン)へ赴いた。そこでベトナム民族主義運動の最初の幹部たちを募集し、「ベトナム青年革命同志会」(通称「青年会」)を結成した。そのメンバーのほとんど全員が、政治的信念のためにインドシナから追放され、自国におけるフランス支配に対する闘争に参加するために集結した者たちだった。こうして広州は、インドシナ民族主義の最初の拠点となった。

ベトナム青年革命同志会のメンバー


 1930年2月3日、彼は香港においてベトナム共産党(後にインドシナ共産党、ベトナム労働党、そして現在のベトナム共産党と改称)の党創立会議を主宰した。この会議は、ホー・チ・ミンによって起草された「簡略政治綱領」「簡略方針」および「党規約」を承認した。彼は、創立に際して、呼びかけ(アピール)を行った。
このアピールは、インドシナ人民の苦難の描写、共産党の創立の宣言、達成すべき政治内容、人民へのよびかけ からなる。
 苦難の描写について、原文(英文訳)の訳を紹介すると
 「戦争は、諸国民に計り知れない人的・物的損失をもたらしました。フランス帝国主義は最も深刻な打撃を受けました。したがって、フランスにおける資本主義勢力を回復させるため、フランス帝国主義者たちはあらゆる卑劣な策を講じて、インドシナにおける資本主義的搾取を強化してきました。彼らは飢餓賃金で労働者を搾取する新工場を建設し、農民の土地を略奪してプランテーションを設立し、農民を貧困に追いやりました。新たな重税を課し、国民に国債の購入を強制しました。要するに、彼らは我々の国民を極度の悲惨へと追い込んだのです。彼らは軍事力を増強し、第一にベトナム革命を窒息させ、第二に新たな植民地獲得を目的とした太平洋における新たな帝国主義戦争に備え、第三に中国革命を鎮圧し、第四に抑圧された諸民族と搾取された労働者階級が革命を遂行するのを支援するソビエト連邦を攻撃するのである。第二次世界大戦が勃発する。その際、フランス帝国主義者たちは必ずや我々の民衆をさらに恐ろしい虐殺へと追い込むであろう。」
 また、達成すべき政治内容として、「1. フランス帝国主義とベトナムの封建主義、反動的ブルジョアジーを打倒すること; 2. インドシナの完全な独立を実現すること; 3. 労働者・農民・兵士の政府を樹立すること; 4. 帝国主義者所有の銀行その他の企業を没収し、労働者・農民・兵士の政府の管理下に置くこと; 5. 帝国主義者及びベトナム反動ブルジョアジー所有の全てのプランテーション及び財産を没収し、貧農に分配すること; 6. 8時間労働制を実施すること; 7. 国債の強制購入、人頭税及び貧民を圧迫するあらゆる不当な税金を廃止すること; 8. 大衆に民主的自由をもたらすこと; 9. すべての人々に教育を施すこと; 10. 男女の平等を実現すること。」をあげている。
 (英語に訳された全文は→https://members.shafr.org/assets/docs/Teaching/Classroom_Documents/Ho%20Chi%20Minh-Appeal-1930.pdfなど)
 
 
  ホーは欠席裁判により死刑判決を受けた。フランス警察は英国から彼の引き渡し許可を得たが、友人たちの助けにより脱出し、上海経由でモスクワに到達した。
  1938年、彼は中国に戻り、延安で毛沢東のもと数か月間滞在した。1940年にフランスがドイツに敗北した際、彼とその側近であるヴォ・グエン・ザップ、ファム・ヴァン・ドンは、この情勢の変化を利用しようと画策した。この頃より、彼はホー・チ・ミン(「啓蒙者」の意)という名を使用し始めた。
 1941年1月に国境を越えてベトナムに入国した三人は、5月に五人と共に「ベトナム独立同盟会」(ベトミン)を結成した。この新組織は中国政府、すなわち蒋介石政権に支援を求めざるを得なかった。しかし蒋介石はホーを共産主義者として、逮捕した。ホーはその後18か月間中国で投獄された。友人たちは、中国南部の軍閥・蒋法奎との取り決めにより、フランスに対するインドシナにおける蒋氏の利権を支援することを条件に、彼の釈放を実現させた。

 この間、ベトナムの情勢に変化が起きていた。
 1940年、ナチスドイツがフランス北部を占領し、南部には親ドイツのヴィシー政府が成立した。日本は1937年から日中戦争を戦っていたが、重慶で抵抗した蒋介石政権を倒せず、アメリカ、イギリスによる支援ルートがフランス領インドシナ(仏印)から入っていたため、これを阻止するため、1940年北部仏印進駐を強行し、また日独伊三国同盟を結んだ。さらに、対決が予想される、アメリカ、イギリスとの戦争に備え、出撃基地とするため、1941年7月、南部仏印進駐を行った。しかし、これにより、アメリカから対日石油禁輸の制裁を受け、対英米戦への道を進む。

サイゴン市内に入る日本軍(パブリックドメイン)

 ちなみに、1941年8月5日 『朝日新聞 東京』は、
 「一糸乱れぬ軍紀 サイゴン市民 皇軍に感嘆」の見出しで、「部隊の本部は仏印当局の好意でサイゴン商工会議所の豪壮な建物が明け渡され、・・・部隊本部首脳以下は河岸に面したマゼスチックホテルを借り切って宿泊してゐるが、一般将兵は逐次それぞれ所定の宿営地に入り・・・」と報じており、司令部や将校の宿泊地を明記している。また、この仏印進駐について、詳細に現地の施設を研究しているサイト↓
  「ベトナム歴史秘話」 https://vitalify.jp/app-lab/business/20200503_vietnam_history/ 
では、一般の兵隊の宿舎の一つが、現Le Quy Don High School(レ・クイ・ドン)高校であったことが示されている。レ・クイ・ドンは18世紀のベトナムの詩人・学者の名前である。

日本軍の司令部となった商工会議所は現ホーチミン市人民委員会庁舎

 

 

日本軍将校が宿舎としていたマジェスティックホテル(1925年設立)


 

サイゴンの日本軍兵士の宿舎の現Le Quy Don High School


 仏印では進駐後、大きな戦闘が無く、フランスとも協調していたが、日本軍が大陸と太平洋戦線で次々と敗北していき、フィリピンやビルマを落として行く中、フランスもナチスドイツから解放され、連合国側に復活したフランスに攻撃される可能性が高まったため、東南アジアで何としても死守すべき仏印を確保するため、1935年3月9日、日本軍は「明号作戦」という、仏印武力完全支配作戦を実施し、現地のフランスを攻撃し官吏ヲ逮捕して仏印を制圧するクーデターを行った。司令部はサイゴンからハノイのインドシナ総督官邸(現ベトナム大統領府)に移った。フランスによる支配で統治権を抑制されていたグエン朝第13代バオダイ帝は、1884年の甲申条約第二次フエ条約を破棄し、フランスからの独立と日本との協働を宣言し国号を「ベトナム帝国」と改めた。
 日本はこのころすでに本土からの支援ルートの制海・制空権を失っており、また仏印周辺の補給路もままならない戦況だったため、米などの食糧と軍需物資確保を再重点とし、北ベトナム各地から強引に米を徴収したり、一部の田に米に代えて麻袋の原料となるジュートを強制的に栽培させた。南ベトナムからの海の米の供給ルートを確保できなかったこともあり、ベトナムでは100万人を超える餓死者を出した。

この慰霊碑はGoogleMapで示せないが、 ハノイ市ハイバーチュン区ヴィントゥイ坊(Phường Vĩnh Tuy, Quận Hai Bà Trưng)にあり、すぐ近くにTrường Tiểu học Võ Thị Sáu(ヴォー・ティ・サウ小学校)がある。


 

 ホー・チ・ミンはベトナムが混乱している好機を逃さず、アメリカ軍と接触し、日本軍に対する戦略情報局(OSS:アメリカの秘密工作機関)との協力を開始した。さらに、彼の率いるベトナム独立同盟(ベトミン)のゲリラ部隊は、中国南部の山岳地帯で日本軍と戦った。同時に、指揮下にあるボー・グエン・ザップ率いる部隊は、1945年春にハノイへ向けて進軍を開始し8月19日にハノイに入城した。

 日本のポツダム宣言受諾は近いとの情報を得たホー・チ・ミンは、8月13日夜、総蜂起の指令を発した。8月17日には、ハノイで日本が立てたチャン・チョン・キム政府を擁護するオペラハウス前の集会がベトミンの扇動によって乗っ取られ、ベトナム完全独立を叫ぶ大衆デモに移り、革命が始まった。19日には、ハノイのベトミンは、日本軍の司令部や保安隊や警察署など政府機関の接収に成功した。保安隊や警察も大勢を見て、ベトミン側に付く者が増えていった。既に降伏を命令されている日本軍は、ただ事態を傍観するばかりであった。8月23日にはフエ、25日にはサイゴンでも人民蜂起によってベトミンが権力を奪取し、26日にはホー・チ・ミンがハノイに入った。そして8月30日、フエのバオ・ダイ帝は退位を宣言し、阮朝は終わった。



「1945年8月19日、ハノイ・オペラハウス前にて(ベトナム革命博物館所蔵)」

 

現在のハノイ市劇場(オペラハウス)とその前面にある8月革命の説明版。「1945年8月19日もベトミン戦線が市内の重要な拠点を占領する前に、ここで何万人もの革命民衆の集会が組織された。」とある。


 日本が連合国への降伏文書に正式に調印した9月2日に、ホーチミンはハノイのバーディン広場で「ヘトナム民主共和国独立宣言」を読み上げた。

 

左の独立宣言を読み上げたところ(パブリックドメイン)はホーチミン廟となっている。バーディン広場から見たホーチミン廟。バーディンの名は1886~87年に要塞を作ってフランスに反乱を起こしたタインホア州バーディンの地名に由来する。

上記市民劇場とホーチミン廟・バーディン広場は多くの観光案内やハノイの地図に必ず載っているものなので、Google Mapsによる場所は示さなかった。


独立宣言(パブリックドメイン)


ベトナム語を綺麗に記載するのが難しいので、訳文でいいから全文を読んでほしいところだが、要点を示す。
 まず、アメリカ独立宣言を引用し「全ての人はみな、平等な権利を持って生まれています。創造主は誰も侵すことのできない権利を与えました。その権利には、生存権、自由権、幸福追求権があります。」と述べ、「より広く言えば、この文言は、世界の全ての民族がみな平等に生まれ、どの民族も生存権、幸福権、自由権を持つということを意味しています。」と個人の権利を民族の権利に拡大した解釈を示した。さらに、1791年のフランス人権宣言の「人は生まれながら自由であり、平等な権利を有し、常に自由であり、権利について平等でなければならない」を引用し、誰も否定することはできない、と述べている。
 しかし、このフランスが、ベトナム人民に自由と民主主義を与えるどころか、ベトナムを分断支配し、野蛮な法律を制定して人民を抑圧し、国を強奪してきた、と具体的にフランスのやって来たことを批判している。「学校よりも多くの監獄を建てた」とまで非難している。
 私たち日本人が見過ごせないのは、これに続いて、1940年来、「日本のファシストが侵略して、フランスと日本と二重の枷がかけられ」「民族は貧困にあえぎ、昨年から今年にかけてクアンチから北部にかけて200万人が餓死しました。」と日本のやったことを非難している。そして「日本が連合国に降伏したとき立ち上がり政権を日本から奪取してベトナム民主共和国を築いたのです。・・・フランスからではなく、日本の手からベトナムを取り戻したのです。」としている。さらに「連合国がベトナム民族が独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています。」と連合国の独立支持を訴えた後、「ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、」これを「維持するために精神・軍隊・生命そして財産のすべてをもつ権利があります。」と締めくくっている。


  

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